クリエイティブカフェ クリカフェ

コミュニケーションについて、広告クリエイティブディレクターの話

クリエイティブの現場は、プレゼンの連続。

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「クリエイティブディレクターは創る人?伝える人?」

プレゼンの本質はコミュニケーションです。そして、クリエイティブディレクターにとって、クライアントへのプレゼンの場だけがプレゼンではありません。

 オリエンの場からプレゼンは始まっています。オリエンの場でクライアントに「例えばこんな考え方は?」などとボールを投げることもあります。

そして、企画をつくり上げていくプロセスでも、まずはクリエイティブディレクターからスタッフへのブリーフというプレゼンがあり、スタッフから出てきた企画に対してディレクションする。このディレクションも、スタッフへのプレゼンと言えます。

そして企画の経過や結果を、営業さんやストラテジストなどの社内セクションに通さないといけません。これもプレゼンです。

 

さて、企画が決まったらタレント事務所にもプレゼンが必要です。経験から言うと、ここが最も慎重になるところです。ベースとなるコンタクトはキャスティングのスタッフが当たりますが、事務所への企画プレゼンはクリエイティブディレクターやプランナーの仕事です。

タレントサイドから見れば、やはり広告代理店はクライアントサイドに立っていると考えるので、そこを乗り越える信頼関係が必要です。バラエティー番組などがメインのタレントさんは割り切って考えてくれるので、ハードルは低いですね。ギャラも悪くないですし。

交渉に気をつかうタレントは、表現者としての本分はあくまで映画や舞台などであり、「広告は本業のイメージをそこなわない範囲で」という方ですね。この考え方は一面では正しいですが、やはり15秒とか30秒の世界で表現する広告の場合では難しいことがあります。

理想はタレントが本分とする活動と広告出演が相乗効果を生むというか、タレントも広告出演によって新しい芸域が開けるような結果になることです。こちらが本当にそう信じていないと、だいたい相手にバレます。

また、えてして本業のイメージを破った広告表現の方が、話題にはなります。そのメリットを説得できれば企画は通りますが、やはり初めてお付き合いする事務所の場合は難しいことが多いですね。

そんなこんなで、やっとクライアントへのプレゼンとなるわけです。というわけで、オリエンから、社内外のスタッフへのブリーフィング、ディレクション、そしてプレゼンまでと、全てのプロセスにおいてクリエイティブディレクターのプレゼン能力が重要になります。

 

また、プレゼンでは期待されて採用されたけれど、作品として完成したら「話が違うじゃないか」という事態も起きます。実制作となった段階で、技術的や予算的に難しいことが判明したり、30秒CMに、どう早く読んでも40秒かかるコピーを入れてほしいと言われたり。

そういうリスクを回避するために、外資系のクライアントに多いのですが、CMの全てのカット割りが演出レベルで詳細に描き込まれているストーリーボードや、実際の尺で編集したビデオコンテを求められることがあります。つまり、ストーリーボードが契約書であるという考え方です。

極端な場合は、スタンドインの役者さんで撮影、編集して仮のCMとして仕上げ、その映像で検討した後に本物のタレントで本番のCMを撮りなおすということもありました。このやり方は完成形とのズレがないので、クライアントにとっても制作者にとっても、リスクを最小化することができます。手間も費用も2倍近くかかりますが。

一方、コンテには無かった要素を入れる余地がなくなるので、現場のアドリブで面白くなるタレントを使う場合は向いていません。演出面でも、ヤクルトタフマンなどでごいっしょさせていただいた故・市川準さんのように、撮影現場でインスパイアしたアイデアもトライする監督の場合は、その面白さを引き出すことができません。

そういったクリエイティブの現場の可能性を引き出し、撮影現場や試写でクライアントに説得するのもまた、クリエイティブディレクターのプレゼンという仕事です。

 

筆者については・・・

 

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プレゼンは、クライアントと想いを共有するコンテンツ。

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「並走するプレゼンにしたい」

マスター(以下)コーヒーのお替りどう?

わたし(以下)あ、じゃあお願いします。

今日はパソコンじゃなくて、紙に書いてるんだね。

 

そうですね。僕はいきなりパソコンに向かうのではなく、ああでもないこうでもないと、まずA4のコピー用紙に書いていきます。

 

ノートじゃなくてコピー用紙に書いていたら、バラバラになっちゃうんじゃないの?

 

だからいいんですよ。ノートに書いていくと、その時点で一定の流れができてしまうでしょう。あとから前後を組み替えるのもめんどくさいし。いったん流れにしばられると、そこから抜け出せなくなるリスクがあるんですね。

 

それってリスクなの?課題から出発して、ある流れに沿って結論に導いていくのは、別にリスクとは思えないけどね。

 

もちろん実際に提案する企画書では、しっかりと流れを作って結論に導きますよ。でも、その企画書を書いていく過程で新たに気づくこともあるわけです。 

例えばクライアントのオリエンの中に、課題とそれを解決するソリューションの手段やメディア、メッセージの方向性などが示されていても、それをさまざまな角度から検証してみるわけです。

その課題の本質は何か?もしかしたら別の課題もあるのではないか?コミュニケーションすべき相手は誰なのか?どういうカタチで解決すればいいのか?コストに見合う解決策は?クライアントのインナーに及ぼす効果は?などなど。

 

なるほどね。オリエンをただなぞるだけじゃないと。

 

その検証を経て、クリエイティブの戦略と戦術を考えていくわけです。まずは、思いつくままに項目を書き出していきます。項目ごとに別の紙に書いていくわけです。そこに疑問や気づき、新たな視点を書き込んで更新していきます。

そして、それぞれの項目のシートを行ったり来たりしながら、時には順序を入れ替えたり破棄したりしながら思考をまとめていくわけです。

 

それでペラの紙に書いていくわけか。かなりアナログだね。

 

そうやって、けっこうぐちゃぐちゃになったものを、新しい紙に書き直しては俯瞰して見ていくわけです。結果的にオリエン通りになってることもあり、クライアントが気づいていない視点にたどり着けていたり、クリエイティブの幅が絞り込めたり、オリエンからは想像できない提案に至ることもあります。

 

それを提出用に清書していくわけ?

 

そうやってでき上がったプロットは、提案する側の思考の流れそのものなので、それをクライアントにも共有してもらえるように、その流れに沿って企画書にします。

もっとも提案の流れについては、さまざまな流儀があるでしょう。冒頭にコンセプトステートメントだけをドンと発表しておいて、やおら「なぜなら」と解き明かしていくなど、クリエイティブディレクターによってさまざまです。

中には「消費者は企画書など見ていません、できあがった表現こそが全てです」と言って、あえて表現案だけを提案する方もいます。

 

かっこいいけど、ネームバリューがないと難しいんじゃない?まあ、あなたには無理だね。

 

僕はプレゼンは結果発表の場ではなく、クライアントもいっしょに考えて、答えに至る想いを共有していく場であると思っています。いわば「並走するプレゼン」を心がけています。「いっしょに考えた結論をもとに、いっしょに作っていきましょう」という想いです。

「パートナー」なのか「偉そうな業者」なのか、この違いはクライアントと長く付き合っていく上で大きいですよ。

 

「想いを伝える」という意味では、手書きの企画書なんてどう?

 

いまどき手書きも味があって新鮮ですね。そういえば先輩のクリエイティブディレクターで、毛筆で企画書を書いていた方がいました。今は古代文字の書道家として活躍していらっしゃいます。

また、プレゼンに先立ってクライアントへのお手紙を読むという人もいましたね。うやうやしく取り出して。プレゼンテーターのキャラクターによっては、ありですね。

手書き企画書もお手紙を読むのも、リモートプレゼンでは斬新かもしれません。「クールなプレゼンだからこそ人肌の温もりを」という感じで。

 

なんとなくスベりそうな気もするけど。普通はパソコンでまとめるんでしょ?

 

キーノートでもパワーポイントでもいいのですが、クライアントはウィンドウズが主流なので、パワポが一般的でしょう。そして企画書のテキストも、より魅力的にコピーライティングしていきます。

レイアウトはもちろんですが、フォントの選択も重要です。ボールドのゴシック系フォントとイメージ写真で隙間なく埋める人もいますし、ナイーブなフォントでホワイトスペースを活かす人も。コピーライター、デザイナー、プランナーなど、職種によってもスタイルはさまざまです。

ただしプレゼンの後も企画書が独り歩きすることを前提に、プレゼンの場にいなかった人が読んでも分かりやすく、共感できるように作り込むことに気を配ります。それはリモートでのプレゼンが増えていくほど、ますます重要になっていくと感じますね。

 

筆者については・・・

 

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プレゼンは語尾が決め手。「と思います」では確信は伝わらない。

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「そこは言い切らないと、ね」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)コーヒーください。

このまえ「プレゼンは言葉の力が大事」という話をしたよね。どんなに優れた企画でも確信を持って伝えられなければ、相手も自信を持って採用できないということだったけど。あんまり自信満々だと、偉そうとかうさんくさいと思われることはないの?

 

クリエイティブのプレゼンは実演販売とは違いますからね。プレゼンの態度は誠実でなければいけませんよ。これからパートナーとなる相手に「想いを共有してもらう」ことが大事ですから。業者としてへりくだる必要もありません。

誠実に確信を持って語らないと、相手に失礼でしょう。もちろん企画の中身がともなっていなければ話になりませんが、であればなおさら「確信が伝わる話法」がプレゼンテーターには必要です。

 

確信が伝わる話法って、例えばどんなこと?

 

分かりやすい例をひとつ言うと、「語尾をしっかり言い切る」ということでしょう。それとは逆に、確信が伝わらないのは「…と思います」というような、個人の感想に聞こえてしまう語尾ですね。

同じことを言っていても、例えば「コンセプトは『消費者と並走するコミュニケーション』です。表現は3方向あります」と言うのと、「コンセプトは『消費者と並走するコミュニケーション』だと思います。表現は3方向あると思います」では、相手への刺さり方が違うでしょう。

たまに「…と思います」と言うのはともかく、口癖のように「…と思います」を繰り返す人の話は、全体として確信が無いというか、発言の責任があいまいな印象を与えてしまいがちですね。

 

プレゼンテーターの意見を聞きたいのではなく、提案が聞きたいんだもんね。

 

意識せずに「…と思います」と言ってしまうのだとしたら損しています。そういう人は、プレゼンの時にはあえて語尾の「…と思います」を封印するよう意識した方がいいでしょう。もちろん日常会話ではまったく問題ないのですが、重要な案件についてのプレゼンでは「思います話法」は封じた方が良いでしょう。

 

話を聞いていて思い出したのが、菅総理の記者会見だね。誠実に話されているとしても、インパクトのある施策を打ち出すのに「思います話法」がちょっと多いような気がしたね。政策を批判しているわけじゃなくて、あくまで話し方についてだけど。

 

ちょっと官邸のホームページを見てみましょうか。緊急事態宣言が出た時のものを読むと、なるほど「思います」という語尾が目立ちますね。ちょっと抽出してみても・・・

 「…都会でも地方でも同じ働き方ができるように、テレワークを強力に推進したいと思います」。これは「…強力に推進してまいります」の方が良いですね。

「…20時以降の不要不急の外出の自粛をお願いしております。是非徹底していただきたいと思います」。これも「…自粛を是非徹底していただくようお願いいたします」と言い切った方が良いでしょう。

「…未来を担う子供たちの学びの機会を守りたいと思います」は、「…学びの機会を守ります」の方が強い想いが伝わります。

同様に、「…十分な資金を用意いたしました。是非皆様に使っていただきますように、手続も簡単にしたいと思います」「…特措法を改正し、罰則などにより強制力を付与することによって、より実効的な対策を可能にしたいと思います」も「…と思います」と言わずに言い切った方が良いでしょう。

また、「…大切な命を守るために御自身のことと捉えていただいて、行動をお願いしたい、このように思います」のように、「…このように思います」と付け加えると、お願いの気持ちを弱めてしまいます。

「…このように思います」は記者との質疑応答になると、ぐっと増えますね。

「…随時状況を見ながら必要な対策を採っていきたい、このように思っております。とにかく効果のある対象に徹底的な対策を講じていきたい、このように思います」と繰り返していますが、これは「…随時状況を見ながら必要な対策を採っていきます。とにかく効果のある対象に徹底的な対策を講じる決意です」と言った方が良いですね。他にも・・・

「…効果的な対応策に的を絞って行っていきたい、このように思います」

「…様々なメニューを用意しておりますので、これを活用して必要な支援というのは行っていきたい、このように思っています」

「…1か月で何としても感染拡大防止をしたい、そういう思いで取り組んでいきたい、こういうように思います」

「…対策はしっかり打っていきたい、そういう思いであります」

「…適切に対処していきたい、このように思っています」

など随所でおっしゃっています。また、

「…必要な方には検査を受けられるように行っていきたいというふうに思います」

「…こうした基本的な考え方をまずは徹底していきたいというふうに思います」

「…状況を見ながら、そこはしっかりと対応していきたいというふうに思います」

「…まずは資金繰りの支援を行っていきたいというふうに思っています」

と、「…いきたいというふうに思います」という言い回しが極めて多いですね。

「…このように思っております」「…いきたいというふうに思っています」を多用すると、丁寧さを超えて弱気なイメージを与えてしまいます。

語尾に限って言えば、せっかく施策や決意を語られていても、わざわざ「…このように思っています」と付け加えることで、結果的に自信のなさを与えてしてしまっていることは残念です。

せめて「…このように思っています」と「…というふうに思っています」を封印していただくだけでも、だいぶ印象は違ってくるはずです。

 

テレビ中継されていることを考えれば、記者会見は「国民へのプレゼン」と言えるので、その中身は当然のこととして、話し方に限っていえば特に語尾はとても大事だということだね。

 

筆者については・・・

 

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オリエン返しが最善とは限らない。ニュートラルな発想でプレゼンを。

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「リモートはロジカルに提案する好機」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)コーヒーください。

うちみたいなお店の場合は、メニューの写真が美味しそうだったので頼んでみて、盛り付けが違うとかまずかったらお客さんをがっかりさせてしまうけど、広告の場合は、プレゼン通りの作品にならなかったり、効果がなかったという時は問題になるの?

 

そうですね。多額の費用をかけて効果を期待するわけですから「がっかりした」では済みません。

 

やはりメニュー通りの盛り付けと味を保証できないとね。プロなんだから。

 

費用対効果へのコミットを求められます。プレゼンテーションのパフォーマンスでごまかしがきくような甘い世界ではないですね。

逆にプレゼン時には未確定な部分があっても、というか、わざとクライアントの想像を膨らませておいて「このクリエイターが考えたのだから、きっと・・・」という期待感で決まってしまうケースもありますね。

 

あなたの場合、それはないでしょ。

 

オリエンはCMだったのに、例えばイベントの提案で返すというようなこともあります。「この課題を解決できるのはCMではありません」と言い切るわけですね。

 

それは怒られないの?クライアントのオリエンに逆らって。

 

そういうプレゼンでは、なおのことクライアントの「心を動かす言葉」が大事ですね。企画書自体がすでに一つの企画になっているような、納得できるストーリー性が必要です。

そういう提案は、いわば本命に対する穴馬となるので、特に競合プレの場合は、それ一本で勝負するのは難しいですね。

 

それはまた、なんで?

 

やはり第一印象としては「クライアントに逆らう」からですよね。指定プレの場合は、なんらかの形で仕事が発生することは決まっているので、お題であるCMの案もしっかり提案して、さらにそれを超えるソリューションとして、例えばイベントの提案をします。

一方、競合プレの場合は、「こっちが正しい」と言い切って、その企画と心中するのも潔いですが、リスクを分散して、CMを提案する「本命チーム」とイベントを提案する「穴馬チーム」に分けることもあります。1案しか提案できない場合は、オプションとして提案するとか。説得力は弱くなりますが。

 

保険をかけるわけね。そして「穴馬」っていうのもピンとこないけど。

 

では、オリエンにニュートラルな案としましょう。「ニュートラルな案」をいくら熱く提案しても、クライアントの宣伝部としては、CM制作のオリエンを上層部にオーソライズした手前、結果的にCMを作らなくなったとは言いにくいですよね。いわば自分たちが練ったオリエンを否定することになってしまうので。

逆に、経営トップに対するプレゼンの場合は、そういうニュートラルな案を選んでいただきやすいですね。僕も、トップにそういうオリエン返しではない提案をして、採用していただいたことが多くあります。もっとも宣伝部にはあとで・・・

 

怒られたと。

 

結果的にオリエンシートをつくった宣伝部はいい気持ちはしなかったでしょうが、「売れるのはこっちだ」という確信がありましたので。その確信と目からウロコの鮮烈さが、オリエンの場で刺さったんだと思います。

もっとも毎度逆らっているわけではありません。ふつうはCMのオリエンにCMの企画で返しますよ。また、誰がプレゼンを受け、誰が最終判断を下すのかによって、そういうニュートラルな提案が通るかどうかは決まります。

プレゼンの場で経営や宣伝のトップが、「これで行こう!」と即断してくれる場合はニュートラルな案が通る可能性が高いですが、プレゼンを受けた担当者が決定権者に上げて、そこで判断される場合は通りにくいでしょう。なぜその案がいいのかを説明しにくいですから。

 

プレゼンに参加していない人が決めることって多いの?

 

プレゼンの場に参加していなかった多くの社員も含めて投票で決める、といったケースもあります。

 

プレゼンの場でおじさんにはウケても、女子社員にはウケなかったりとかありそうだもんね。

 

なによりも「うちの会社、いい広告つくってるよね」という社員の共感が得られなくてはまずいですものね。

さらに、ターゲットが若物や女性などの場合は、ターゲットに近い若手社員の票が多く集まったという事実が、その企画を上層部に上げる際のエビデンスになるという理由もあるでしょう。

そういう場合は、企画書は見ずに、CMであればコンテだけが独り歩きするので、期待感を盛り上げかつ分かりやすいコンテにすることが重要です。

一方、官庁の場合は、企画書一式をプレゼンに先立って提出してある程度検討された後に、確認的なプレゼンを行うことも多く、提出時の企画書の出来そのものが成否を決することになります。この場合は企画書が独り歩きするわけですから、プレゼンテーターのパフォーマンスに頼らないロジカルな流れや、見る人によってブレない書き方が重要となります。

 

でも、やっぱり出来上がった作品が全てなんじゃない?プレゼンの中身とか、どういうプロセスで決まったとかは、視聴者にしてみれば関係ないことで、完成作品しか見られないわけだしね。

 

企画の前提となる分析や戦略はとても重要ですが、企画書を見ていない人たちにヒットしなけりゃ意味ないですね。それを忘れると、特に競合プレの場合、勝つことが目的になってプレゼンのパフォーマンスが行き過ぎることも起きます。

弦楽四重奏の生演奏をバックにプレゼンしたとか、拍手する観客役のエキストラを仕込んでプレゼンしたとか、タレント本人を連れてきて挨拶させたなどの逸話もあります。どのプレも「そんなプレゼン上のパフォーマンスは、商品が売れることとは関係ない」とお叱りを受けたらしいですが、まあ当然でしょう。

 

やっぱり企画の中身で勝負しなきゃね。最近はオンラインのプレゼンが増えているんでしょ?そういうプレゼンのパフォーマンスはもう出番がないんじゃない?

 

モニター越しの場合は、クライアントとクリエイターが空気を共有するようなプレゼンは難しく、そういったパフォーマンスは力を失っていきますね。プレゼンのニューノーマルが始まっているのでしょう。

ソリッドでクールな説得力がますます重要という気がします。クリエーターは、オンラインを前提とした新しいプレゼンスキルを磨くことですね。オンラインだからこそ心に残る「言葉の力」が大事になっていくと思います。

 

オンラインならではの説得力を追求するということかな。

 

その意味では、先ほど言っていた「オリエンにニュートラルな提案」をクールにロジカルにプレゼンするには良い環境と思いますね。もっとも、その場の「空気」を感じながら「目くばせ」のような無言のコミュニケーションで、プレゼンの流れをアレンジしていったり、そんな絶妙な技が使いにくくなりました。これは困ったことです。

 

筆者については・・・

 

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固定概念で見ていたことを反省。未知の世界「ゲートボール」に、目からウロコ。

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「思い込みの門を開けよう」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)カフェオレください。

ここ谷中も、ちょっと人出が戻ってきたと思ったら、また心配な状況になってきたね。さっきまでいた地元のお客さんが、「人と会う機会が減っているので、心の行動範囲が狭くなった」と嘆いていたね。

 

心の行動範囲ですか。

 

出かけることに気持ちの壁ができたというか、心身ともに家から半径3キロくらいで生きている感じだと言っていたよ。日常生活に不便はないので慣れてしまったけど、これが「これからの日常」ということなら、晴れ晴れとした気分になれないなと。

真面目に考えて自粛している人ほど、そういう暗い気持ちになっているとしたら、それもコロナ禍のひとつでしょう。

 

半径3キロの行動範囲を前向きにとらえて、その中で今まで気づかなかったことを発見していく、という方向もあると思いますが。月並みですが、カメラを持って半径3キロのご近所探訪とか。

 

文京区は坂が多いから、全坂制覇するとかね。

 

カメラとか料理など単独で何かにチャレンジしていくことは思いつきますが、人との交流を広げていこうとか、仲間をつのって何かを始めるという行動は、今はなかなか起こしにくいですよね。

先日、東京のゲートボール連合の方にお話をうかがう機会があったのですが、これから始めるんだったら、ゲートボールはおすすめですよ。

 

今さらゲートボールって。あれはお年寄りの暇つぶしでしょ。

 

それが、ぜんぜん違うんですよ。お話をうかがった方たちも、若手の経営コンサルタントとデザイナーでしたよ。

それで初めて実戦を見たのですが、プレイヤーが皆さん若いんですね。大学生もいました。小さいお子さんもいっしょの家族チームも。そういえば、うちの近くの開成中学・高校のゲートボール部が全国ベスト8になったことがあるとも聞きました。

 

へえ、ちょっとびっくり。聞いてみないとわからないもんだね。ゲートボールって、打ったボールをゲートに通していって、誰がいちばん早くゴールさせるかを競うんでしょ?転がすゴルフみたいな。

 

僕も初めはそう思っていましたが、それは「グラウンドゴルフ」という種目です。道具が似ているので混同しがちですが。ゲートボールは、もっと複雑な競技なんですね。

5人でチームを組むのですが、誰が先にゴールするかを競うのではなくて、チーム全体の戦略として相手チームとの駆け引きで戦う「頭脳戦」という感じでした。独特な技を使いながら、ボールをただ転がすというわけではないんです。

ちょっと言葉では説明しにくいのですが。自分の既成概念にあるゲートボールとはまったく異質なものでしたよ。

 

YouTubeで検索したら、競技の動画があったので見てるけど、なるほど、これは転がすゴルフではないね。たしかに若い選手が多い。ふーん、個人個人が独走するんじゃなくて、チーム全体で固まってゲームを進めていくんだね。

あれ、自分が打つ番でもボールをコートの中に打ち込まないで打順をパスした人がいるけど、どういう意味があるの?どんなルールで戦っているのか興味あるね。

 

僕もまったく詳しくないのですが、その局面ではコートにボールを入れないで回す方が、チームにとっては有利になるという戦略なんでしょう。強い選手がどんどん得点していくというより、相手チームの攻撃を防ぎながら、チーム全体で得点をあげていくという感じですね。そういう意味ではカーリングを連想しましたよ。

 

ともかく頭を使うスポーツみたいだね。これはたしかに既成概念にとらわれていたね。

 

年齢性別に関係なく5人いればチームが作れますし、フィジカルディスタンスをとれるし、あまり広い場所もいらないようなので、コロナの時代に適していると思いました。

そして、車いすの方もいっしょにプレーすることも可能なようです。なかなか他には例の無いユニバーサルなスポーツなんですね。

 

ということは、オワコンだと思っていたけど、これからのスポーツと言えるんじゃない?さっきのお客さんも誘って始めてみようかな?

でも、ゲートボールみたいいに、いったん皆が思い込んでいた固定概念をくつがえすのって、すごく難しいね。こうやって具体的な話を聞かないと、固定したままだったよ。

 

そうですね。ゲートボール人口は、減ったとはいえ日本に約10万人いるのに、なんとなくオワコンだと思われているのは、皆が本当の姿を知る前に、誤ったイメージを植え付けられてしまったからではないですかね。

ゲートボール全盛期はたしかに高齢者の競技人口が多かったので、「お年寄りのもの」と思い込まれていたきらいがあったのでしょう。80年代に週刊文春糸井重里さんが連載していた「萬流コピー塾」というコーナーがあるのですが。

 

毎回のお題に対して読者が投稿して、萬流家元の糸井さんが選んでいくというやつね。

 

そこでゲートボールがお題になったことがありました。秀作として選ばれたのは、たしか「飽きるか、死ぬか。」というコピーでしたね。まあ、そういうイメージが当時から連綿と引き継がれてきたと言えるでしょう。

 

「生きるか、死ぬか。」じゃなくて「飽きるか、死ぬか。」ね。ゲートボールなんて飽きて止めるか、本人が亡くなって止めるかの二択という決めつけがベースになっていると感じるね。「ゲートボール」と聞いただけで、反射的に「年寄のもの」と。

 

既成概念にとらわれて反射的に本当の情報に目をそむける反応を、「センメルヴェイス反射」と言います。最近、耳にする言葉ですね。ゲートボールで語るにはちょっと大げさですが。

センメルヴェイスは、19世紀、ウィーンにいた医師の名です。彼が勤務していた病院で出産した産婦の、産じょく熱による死亡率が他と比べて3倍も多いことに気づき研究しました。お産婆さんが取り上げた時より、医師が取り上げた時の死亡率が3倍高かったという説もあります。

彼は「医師の手についている何か」が原因だと考えたわけです。当時はまだ細菌とかウイルスという知見はなかったんですね。そこで医師の手を消毒することを説きました。これは「死因は医師」と言ったことに等しいわけです。

だれも相手にしてくれないどころか逆に迫害され、精神病院に入れられて最期を迎えます。死後になってやっとセンメルヴェイスの説が証明され、「院内感染予防の父」とか「母親たちの救い主」と讃えられることになります。

 

なるほど。ガリレオの地動説みたいだね。正しいことを説いても、反射的に受け入れられないことがあるということだね。ゲートボールへの理解無き固定概念もそうだと?ちょっと大げさじゃない?

 

大げさに言いたいわけではないですが。既成概念に縛られていて、ゲートボールも「知ってるよ、お年寄りがやってるね」とスルーしていたら、本当の姿は分かりませんでした。まだまだ世の中にそういうことって多いかもしれませんね。

 

筆者については・・・

 

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オンライン化が進む自助と公助。オフラインが命の共助はどうなる?

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「ふれあえない共同体の未来」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)紅茶ください。

今年は根津神社のお祭りもできなかったね。来年はどうなるんだろう?お祭りは、そもそも人と人との「ふれあい」がベースだし、フィジカルディスタンスを保って、掛け声もかけずに神輿を担ぐというのは、全く想像できないもんね。

 

コロナによって喪失したものって多いですよね。言葉にしても「喧々諤々」「丁々発止」はもう死語になってしまうんでしょうか?

 

コロナでなくとも絶滅危惧種なんじゃない?「同じ釜の飯を食った仲間」とかもね。

 

「同じ釜の飯」は大丈夫でしょ。「同じ皿」とか「同じ鍋」は危ないですが。

 

コロナ対策は、国や自治体の大きな取り組みと、個人の日常の心がけについては論じられるけれど、お隣同士で助け合うといった、中間規模の対応についてはあまり聞かないね。

 

それが震災や台風など自然災害と違う点かもしれませんね。自然災害の場合は「自助」「公助」に加えて「共助」の重要さが強調されますもんね。「被災した人を、被災していない人が助ける」または「被災者同士で助け合う」という共助ですね。

 

「自助、ご近助、公助」と言っている人もいるね。それにしても今回のような感染が拡大している中での「共助」のあり方は、難しいよね。

 

そうですね。「共助」には、どうしてもフェイス・トゥ・フェイスというか、フィジカルに寄り添う行動が伴いますからね。気軽に「お元気ですか?」と訪ねていくのも気がひけますし。

「自助」と「公助」のはざまで、地域の共同体を支える町内会などの中間組織による活動の難しさを、ひしひしと感じますね。また、コロナ禍の中で災害が発生した場合、「共助」としてのボランティア活動は、どうしても感染防止を優先して、控える傾向になりますもんね。

 

近所に「老人会で囲む週一回の麻雀だけが楽しみ」と言っているおばあちゃんがいるけど、ストレスたまっているだろうな。高齢者のコミュニティの場合は、やっぱり「ふれあい」がキーワードだもんね。

急に「オンラインで」って言われても、「まずはガラケースマホに変えなきゃ」というのが現状。デジタル政策の一環として、後期高齢者に「かんたんスマホ」を配ったらどうかね?

 

町内会や老人会は、本来「オフラインを前提としたネットワーク」ですからね。未だに回覧板を回していますし。でも、これを機にいろいろとチャレンジして適応していくしかないでしょうね。

 

町会のような地域の共同体が典型だけど、そもそも「オフラインであることに価値があった」社会的な活動は、今後どうなっていくのかね?オフラインでなければ成立しないコミュニティは、もうこの先無くなってしまう運命なのかね?

 

コロナの流行がずっと続くわけではないでしょうが、「コロナ的な災厄」が今後も襲ってくる可能性はありますよね。それも視野に、技術革新をともないながら、さまざまな分野でオンライン化が加速することは間違いないでしょう。

ですから町会などの共同体も、「時代の流れについて行けない」と諦めるのではなく、できることからオンラインで対応していくという流れは作った方がいいと思います。

 

町内会も、デジタルに強い若手の出番だね。

 

ただし、地域の共同体は「オフラインの人間関係を豊かにする」ことが目的であり、オンライン化は、そのための手段であるということを忘れてはいけないと思います。

オフラインのつながりを切り捨てた、オンライン・コミュニティにしてしまっては、手触りがある地域の共同体を持続させることは難しいでしょう。地域の共同体は「連絡網」ではなく「セーフティーネットだからです。

 

このさい一気に改革だ。ついてこれない者はもう知らない、淘汰されてもしょうがない、という考えが世間を支配するとコロナ以上に怖いね。デジタル新自由主義とでもいうような。

 

「オンラインが善、オフラインは悪」のような極端な発想にならないためにも、できるところはオンライン化してみる。

そして、オンライン化できない人が一人でもいる場合は、オンライン一本にシフトしないで、オフラインのコミュニケーションも手間がかかるが残しておく。

そしてそれらの人々がオンラインに順応できるようにしっかり支えていく。どうしても順応できないなら無理せずオフラインで対応していく。と、工夫していくことが大事です。

大人の発想で考えれば当たり前のことですね。共同体にいる人を「一人も取り残さない」という「包摂」の想いがベースになければいけないと思います。

 

今どきZoomもできないのはダメ、とか言うんではなくてね。活動の形態や構成員などの状況によって、「速やかにオンライン化するべき」「なるべくオンライン化を進める」「あえてオンライン化しない」かを判断していけばいいということだね。

 

会議もオンラインで効率性が高まることもあるでしょうし、低下する場合もあるでしょう。実際に経験したことですが、どんなに発想が素晴らしい人でも、オンラインのコミュニケーションが苦手であれば、本来取り上げるべき声が埋もれてしまうことがあります。

 

ボソボソ話しているけど実はデキるというヤツね。逆に、中身は無くともオンライン空間では存在感がある人の意見が通ってしまうとか。

イベントなども、オンライン化にすることで新しい価値が生まれる可能性もあるだろうね。世界同時につながるイベントとか。

「毒を変じて薬と為す」という言葉があるけれど、これを機に芸術やスポーツの可能性が開けるといいよね。コロナに負けない、というかコロナをバネとして、「人と社会を豊かにする新しい芸術文化の華を咲かせたい」と願うばかりだね。

 

筆者については・・・

 

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面白い、感動する、リスペクトする。あなたにとって「共感」って何ですか?

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「共感は、便利な常套句」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下エスプレッソください。

このまえ「共感が生まれるコミュニケーション」について話したじゃない。うちのお客さんで、おばちゃん同士なんだけど、相手の話に「ほーんとにそうよね!」と相槌を打った後に、「でさ、昨日なんだけどね・・・」とか、まったく別の話題に流れていく会話を見るんだけど、この「ほーんとそうよね」というのも共感かね?

 

相槌は会話の接続詞みたいなもので、共感ではないでしょう。でも「共感」って便利な言葉ですよね。自分もつい企画書に「自分ゴト化して共感を喚起する」とか書いてしまいがちです。まあ、常套句として使っていることも多いですね。

 

「共感」って響きもいいし、便利な言葉だね。共感は同感とは違うよね。

 

理性的に意識するのが同感だとしたら、共感はもっと感情的というか、同意を超えて心の波長が合う、共鳴するというか、価値観が重なっていく感じでしょうか。同感の前に、理屈抜きの共感という感情が生まれることもあるでしょう。

信じられる相手との間でないと、共感は生まれないですよね。そのためには「まずは信じてもらうこと」が共感の第一歩でしょう。広告も、言いたいことを言っているだけでは信じてもらえず、ましてや共感は生まれません。

 

「広告で信じてもらう」って、なかなか難しいんじゃない?

 

いきなり信じてもらうのは難しいしょう。「相手の立場で考えて語る」という努力も大事でしょう。もう一歩進んで、相手が「自分事として捉えられる」ように工夫して語っていくことも、共感につながります。さらに、頭で理解させるより、もう「理屈抜きに好きになってもらう」という共感の作り方もありますね。

伝えたいサービスやターゲットによって共感の作り方はさまざまです。たとえば「携帯料金は高い」と言いたい場合に、カメラ目線で「高い!!」と叫ぶ表現と、生活者の実感として「高くない?」とつぶやく表現で、どちらに共感が集まるかというと、生活者の実感より叫んだ方が、勢いや意気込みを感じられて、ブランドへの共感が上がると思います。まあ、強い表現の場合は、オンエアの頻度が多すぎると押しつけがましいですが。

 

共感って「好き」とか「支持する」とかより、もっとほんわかとしたゆるい感じの感情という気がするんだけどね。「ま、いいか」という感じ?

 

以前、「広告表現への共感」について10代に意識調査をしたことがありましたが、「興味がある」とか「好き」とかじゃなくて、「許せる」という反応が多かったのが印象的でした。グループインタビューの中で、「あのCMは許せるよね」とか「あれはちょっと許せない」とか、参加者みんなで盛り上がっていました。

つまり広告を「見てもやってもいいか」という、かなり厳しい視点で見ているのではないかと思いました。本当は見たくないんだけど、好きなタレントや音楽、好きな表現なので「許容範囲」という。

とはいえ「許せる許せる」と言う時のトーンは、ポジティブな「いいね」の意味もあるかとは思いました。グルインなので、みんな評論家になった気分だったのかもしれませんが。

 

激しく同意するのではなく、「許せる」という温度で共感の意を示すのは分かる気がするね。他にも「ウルっときた」とか「ほっとした」とかも共感の仲間なんじゃない?ようするに自分の心がポジティブな方に動いた時。共鳴するということだね。

 

そうですね。共感って実はそういうはかない感覚なのかもしれません。強いインパクトを与えて、心を揺さぶったり、心に刺さるということもあるでしょうが、薄皮のようなはかない感情が幾重にも重なっていって、強い共感に育っていくということもあると思います。

 

コミュニケーションの技術としては難しそうだね。

 

あなたの味方であると寄り添うとか、説得するのではなくあたかも自分で見つけた答えであるかのように誘導するとか、理屈抜きに楽しめたり感動させる、余計なエンターテイメントはせずにひたすら誠実に語る、などあの手この手を駆使しないと。

共感を得ると言っても、商品や相手によっていろいろな作法があるわけです。共感のスイッチは一つではありません。面白いイコール共感というわけでもありません。

あるノートPCのローンチ時のコミュニケーションを提案した時の話なんですが、クライアントから「企画書の中に共感という言葉があるけれど、この製品にとって共感は必要なのか?」と問われたことがありました。

そのPCは、今までのノートPCには無い新機能が満載で、価格的にもハイエンド機です。そんな先進技術を売る場合の共感とは何か?そもそも共感は必要なのか?という議論になったんですね。

 

たしかに「許せるよね」とかいう、ユルい感覚では買ってくれないだろうね。パソコンなんて、店頭で説明聞いても全く理解できないし。

 

まあ、そういう方はターゲットではないんですが・・・

 

今までとは圧倒的に違うんであれば、それを伝えればいいんじゃない?機能で売る商品なら、徹底的に機能の優位性を伝えることが共感になるんじゃない?

 

機能については、カタログや製品サイトで見ればその全貌が分かりますが、その新機能をマルチに使いこなせることが売りなので、15秒とか30秒のCMでは全貌が伝わらないわけです。

結局、今までとは一次元上の機能を使いこなせる人が、自らのクリエイティビティーの次元を上げることができる、というコンセプトにしました。機能を使いこなせる人をリスペクトする。

そういう人ならきっとこのPCをリスペクトしてくれるはず。というリスペクトし合うことで生まれる共感というか。ブランド構築の本質に立ち戻ったと言えばそうなのですが。

 

価値を分かってくれる人だけ買ってくれればいいというわけね。「俺か、俺以外か。」みたいな。

 

それは、ローランド語録ですね。

 

それを使うことでユーザーの創造力がアップしていく。「鏡とじゃんけんしても勝つ。」みたいな。

 

それはちょっと違うと思いますが。このPCの場合、「どなたにも使いやすく」という機能ではないので、リスペクトこそが共感の源泉であると。「高い理想を追求して開発したこのPCを使いこなせば、あなたはもっと凄いあなたになる」ということです。

 

でもそれだと、ターゲットが狭くなるんじゃないの?

 

そういう志を持っているブランドだということで、結果的にブランド全体に及ぼす効果は大きいですから意味はあります。

 

「いつかはクラウン」でカローラが売れる、みたいな?例えが古いか。

 

それだけじゃなくて、今の自分にピッタリという共感もあるけれど、今の自分には分からない未来への可能性をもたらしてくれる期待感というという共感もあると思ったわけです。

今の自分というジグソーパズルの穴にピタリとはまり込むピースが共感となる場合もあるけれど、ジグソーパズルよりもワクワクするゲームがあるという期待という共感もあるのだ、という感じでしょうか。

 

話が分かりにくくて共感できるような、できないような。ようするに「ちょっと背伸びして買っても、損はさせません」ということかね?

 

そういう夢の無いことを言ってはいけません。

 

筆者については・・・

 

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