固定概念で見ていたことを反省。未知の世界「ゲートボール」に、目からウロコ。
「思い込みの門を開けよう」
マスター(以下■)いらっしゃい。
わたし(以下■)カフェオレください。
■ここ谷中も、ちょっと人出が戻ってきたと思ったら、また心配な状況になってきたね。さっきまでいた地元のお客さんが、「人と会う機会が減っているので、心の行動範囲が狭くなった」と嘆いていたね。
■心の行動範囲ですか。
■出かけることに気持ちの壁ができたというか、心身ともに家から半径3キロくらいで生きている感じだと言っていたよ。日常生活に不便はないので慣れてしまったけど、これが「これからの日常」ということなら、晴れ晴れとした気分になれないなと。
真面目に考えて自粛している人ほど、そういう暗い気持ちになっているとしたら、それもコロナ禍のひとつでしょう。
■半径3キロの行動範囲を前向きにとらえて、その中で今まで気づかなかったことを発見していく、という方向もあると思いますが。月並みですが、カメラを持って半径3キロのご近所探訪とか。
■文京区は坂が多いから、全坂制覇するとかね。
■カメラとか料理など単独で何かにチャレンジしていくことは思いつきますが、人との交流を広げていこうとか、仲間をつのって何かを始めるという行動は、今はなかなか起こしにくいですよね。
先日、東京のゲートボール連合の方にお話をうかがう機会があったのですが、これから始めるんだったら、ゲートボールはおすすめですよ。
■今さらゲートボールって。あれはお年寄りの暇つぶしでしょ。
■それが、ぜんぜん違うんですよ。お話をうかがった方たちも、若手の経営コンサルタントとデザイナーでしたよ。
それで初めて実戦を見たのですが、プレイヤーが皆さん若いんですね。大学生もいました。小さいお子さんもいっしょの家族チームも。そういえば、うちの近くの開成中学・高校のゲートボール部が全国ベスト8になったことがあるとも聞きました。
■へえ、ちょっとびっくり。聞いてみないとわからないもんだね。ゲートボールって、打ったボールをゲートに通していって、誰がいちばん早くゴールさせるかを競うんでしょ?転がすゴルフみたいな。
■僕も初めはそう思っていましたが、それは「グラウンドゴルフ」という種目です。道具が似ているので混同しがちですが。ゲートボールは、もっと複雑な競技なんですね。
5人でチームを組むのですが、誰が先にゴールするかを競うのではなくて、チーム全体の戦略として相手チームとの駆け引きで戦う「頭脳戦」という感じでした。独特な技を使いながら、ボールをただ転がすというわけではないんです。
ちょっと言葉では説明しにくいのですが。自分の既成概念にあるゲートボールとはまったく異質なものでしたよ。
■今YouTubeで検索したら、競技の動画があったので見てるけど、なるほど、これは転がすゴルフではないね。たしかに若い選手が多い。ふーん、個人個人が独走するんじゃなくて、チーム全体で固まってゲームを進めていくんだね。
あれ、自分が打つ番でもボールをコートの中に打ち込まないで打順をパスした人がいるけど、どういう意味があるの?どんなルールで戦っているのか興味あるね。
■僕もまったく詳しくないのですが、その局面ではコートにボールを入れないで回す方が、チームにとっては有利になるという戦略なんでしょう。強い選手がどんどん得点していくというより、相手チームの攻撃を防ぎながら、チーム全体で得点をあげていくという感じですね。そういう意味ではカーリングを連想しましたよ。
■ともかく頭を使うスポーツみたいだね。これはたしかに既成概念にとらわれていたね。
■年齢性別に関係なく5人いればチームが作れますし、フィジカルディスタンスをとれるし、あまり広い場所もいらないようなので、コロナの時代に適していると思いました。
そして、車いすの方もいっしょにプレーすることも可能なようです。なかなか他には例の無いユニバーサルなスポーツなんですね。
■ということは、オワコンだと思っていたけど、これからのスポーツと言えるんじゃない?さっきのお客さんも誘って始めてみようかな?
でも、ゲートボールみたいいに、いったん皆が思い込んでいた固定概念をくつがえすのって、すごく難しいね。こうやって具体的な話を聞かないと、固定したままだったよ。
■そうですね。ゲートボール人口は、減ったとはいえ日本に約10万人いるのに、なんとなくオワコンだと思われているのは、皆が本当の姿を知る前に、誤ったイメージを植え付けられてしまったからではないですかね。
ゲートボール全盛期はたしかに高齢者の競技人口が多かったので、「お年寄りのもの」と思い込まれていたきらいがあったのでしょう。80年代に週刊文春で糸井重里さんが連載していた「萬流コピー塾」というコーナーがあるのですが。
■毎回のお題に対して読者が投稿して、萬流家元の糸井さんが選んでいくというやつね。
■そこでゲートボールがお題になったことがありました。秀作として選ばれたのは、たしか「飽きるか、死ぬか。」というコピーでしたね。まあ、そういうイメージが当時から連綿と引き継がれてきたと言えるでしょう。
■「生きるか、死ぬか。」じゃなくて「飽きるか、死ぬか。」ね。ゲートボールなんて飽きて止めるか、本人が亡くなって止めるかの二択という決めつけがベースになっていると感じるね。「ゲートボール」と聞いただけで、反射的に「年寄のもの」と。
■既成概念にとらわれて反射的に本当の情報に目をそむける反応を、「センメルヴェイス反射」と言います。最近、耳にする言葉ですね。ゲートボールで語るにはちょっと大げさですが。
センメルヴェイスは、19世紀、ウィーンにいた医師の名です。彼が勤務していた病院で出産した産婦の、産じょく熱による死亡率が他と比べて3倍も多いことに気づき研究しました。お産婆さんが取り上げた時より、医師が取り上げた時の死亡率が3倍高かったという説もあります。
彼は「医師の手についている何か」が原因だと考えたわけです。当時はまだ細菌とかウイルスという知見はなかったんですね。そこで医師の手を消毒することを説きました。これは「死因は医師」と言ったことに等しいわけです。
だれも相手にしてくれないどころか逆に迫害され、精神病院に入れられて最期を迎えます。死後になってやっとセンメルヴェイスの説が証明され、「院内感染予防の父」とか「母親たちの救い主」と讃えられることになります。
■なるほど。ガリレオの地動説みたいだね。正しいことを説いても、反射的に受け入れられないことがあるということだね。ゲートボールへの理解無き固定概念もそうだと?ちょっと大げさじゃない?
■大げさに言いたいわけではないですが。既成概念に縛られていて、ゲートボールも「知ってるよ、お年寄りがやってるね」とスルーしていたら、本当の姿は分かりませんでした。まだまだ世の中にそういうことって多いかもしれませんね。