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コミュニケーションについて、広告クリエイティブディレクターの話

「自助」も「公助」も大事だけれど、「共助」という利他の想いが社会を持続させるはず。

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「助かるのは自分だけ?」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)キームンください。

このあいだ菅総理が掲げた「自助、共助、公助」について話したけど、特に話題になったのは自助のところだよね。コロナで国民がいろいろと自助している今、改めて国から自助を言われたくない、というのが国民感情だと思うけど。

「自粛」と「自助」はイコールではないけれど近いイメージがあるしね。これだけ個人が努力しているのにお店がつぶれたり、解雇されたりしているのに、さらに自助を求めるのか?というのが正直なところでしょう。

 

そうですね。「自助、共助、公助」自体は社会に定着していて、社会にとって必要な理念なんですが、国民の感覚とズレていると捉えられてしまった。「自助、共助、公助」という理念は、実は「防災」と「社会保障」と「自民党の綱領」で使われていて、それぞれ意味が少しずつ違うと思います。

 

社会保障で言うところの自助って、ざっくり言うと「まずは自分で何とかする」っていうことだよね。それをベースとして共助や公助の出番が来るという。

 

諸説ありますが、そう考えることが一般的ですね。一方、防災の場合は「まずは自分で」ということではなくて、つまり「自助、共助、公助」にプライオリティがあるというより、その3つの「助」が総合的に機能することで、相乗効果を発揮できるという考え方ですね。3つのが並走して機能していくことが大事です。

社会保障の場合は、まず自助、それを元にした共助、最後の砦が公助という考え方が一般的だと思います。

もっとも、そのように社会保障を捉えていくと、自己責任ばかりが先に立ち、はなから自助に限界がある弱者を切り捨てていく新自由主義的な政策になってしまうという批判もあります。まずは社会的弱者の存在をベースとした公助の整備が先で、その前提が不十分なままに自助を求めるのは問題ということですね。

 

で、菅さんはどっちの意味で言っているのかね?

 

それは僕には分かりませんが、いずれにしても自助が社会にとっての基盤であり、欠かせない理念であることは間違いないでしょう。

 

そうやって両論併記的にまとめるのはズルいよ。どこかの社説じゃあるまいし。それはそうと、自助っていうと「自分のことだけ考えていればいい」と思いがちだけど、それってエゴイズムになっちゃうんじゃないの?

 

たしかに自助だけが強調されて、共助の想いを持っていない人が増えると、自分だけ良ければ良いという社会になってしまいますよね。社会という視点で考えると、共助を発動するのは、自分が「共同体の一員である」という意識でしょう。その意識が共助という行動となって、自助と公助をつなげて機能させていくのだと思います。

もし自助と公助だけで良いという考え方だと、たとえば道に人が倒れていたら、公助である救急車を呼んで、その場を立ち去ってもいいのかもしれません。普通は救急車が到着するまでは付き添って声とかかけますよね。もし近くにAEDがあれば周りの人と協力して使うとか。

そういう、他者に対する想いが共助を支えているはずです。利他の精神と言ってもいいですね。

 

公園の落ち葉が家の前の道に飛んできていたら、自分の責任じゃないからと、掃かずに役所の公園課を呼びつけるとか。まあ大量に落ちていたら呼んだ方がいいだろうけど。落ち葉を掃く義務はないわけだし。子どもが遊んでいる公園に割れたガラスが落ちていても、拾う義務は無いから放っておくとかね。で、公園課を呼びつけるという。

 

マスターは公園課が好きですね。たしかに個人の義務はないのですが。行政サービスのような公助でやる範囲については、個人の義務は一切無いと割り切ってしまうと、たとえば身近に困っている人がいても、それは行政がやることなので自分は関わらない、という発想につながりかねません。自助と公助の発想しかないと、そうなりますね。

 

そこで共助の出番だと。

 

そうですね。行政は公的サービスという公助を稼働させるべきですが、だから地域に暮らす個人の社会的責任がまったく無くなるわけではないと考えて行動するのが共助でしょう。助け合いは、共同体の構成員の務めであるという考え方です。

常に一定の人がそう考えていれば、共助は成り立つと思います。自助と公助の狭間で忘れられがちですが、実は共助こそ、自助と公助をつなぐ重要な価値観だと思いますね。

 

共助を家族に例えると、家族の一人一人が皆に対して関心や責任を持って、いっしょに暮らしているって感じかな。まあ、家族には関心が無いという人もいるけどね。

 

だいたいそんな感じでしょうか。現実に自助と公助だけで事足りて、共助を必要としないと感じている人はいます。というか増えているかもしれません。しかし、共助は共同体を持続していく上での大事な意識です。それが欠落しては、社会の安心や持続は難しいでしょう。

防災や社会保障の分野だけでなく、社会を営んでいくさまざまな場面で「自助、共助、公助」は存在し、それぞれが補い合いながら機能していくのだと思います。

たとえば学校教育という事業は公助ですが、教育現場を支える職員の共助は必要でしょう。育児についても、子育て支援策の拡充は公助ですが、子育てしている家族を地域で支えていくのは共助と言えますね。「自助、共助、公助」にはそれぞれ役割分担があり、またそれぞれに限界もあるということでしょう。

 

その意味では国が「自助、共助、公助」を社会のあり方として掲げるのは当たり前のことと言えるね。特に自助を強要しているわけではないし。

 

ただし、国民にどう届くかというコミュニケーションの視点で考えれば、他の表現もあったと思います。たとえば「国民の皆さんの自助や共助が報われる社会のために、公助でしっかり支えていく」というような。あくまで主語は公なのですから。これは政治的な視点ではなく、あくまでコミュニケーションの視点での意見ですが。

 

表現と言えば、菅総理が会見で掲げたパネルの書き方も関係していると思うんだよね。たしか会見で示したパネルには「自助、共助、公助、そして絆 規制改革」って並べて書いてあったんだけど、もっとていねいというか国民に寄り添った表現の仕方があったと思うね。

施政方針の表明は、国民に対する想いの表明でもあるんだから。「令和」と新元号を書いた色紙を「どうだ!」と発表するのとはちょっと違うんじゃないの、と感じたね。

 

 筆者については・・・

 

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「わからないなら反対を」わからないと決めつけた相手にコミュニケーションは通わない。

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「わからない人ね、と言われて平気?」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)コーヒーください。

このあいだは、大阪都構想反対のヒョウ柄チラシが話題になったことについて話し合ったけど、ああやって「既存の表現に対して自分だったらどうするか?」というようなテーマを持って考えていくと、いいトレーニングになることがわかったよ。

※「大阪都構想反対チラシ」についてのブログはバックナンバーを参照ください。

 

そうですね。広告は問いを発するアートとは違い、クライアントがいて、何かの課題に答えを出していくための技術ですから、何かテーマを想定しないと考えていくのが難しいですよね。

それはそれとして、作風を身につけるという意味では、好きなコピーライターのコピーや作詞家の詞をひたすら書き写していくということも意味がありますね。

 

なるほど、写経みたいだね。ところで、むしかえすようで悪いけど、大阪都構想反対のヒョウ柄チラシが炎上していた時に、やはり炎上していた「わからないなら反対を」という主張も気になっていたんだよね。今日は、その話を。

 

大阪都構想については結果が出ましたが、おさらいすると、賛成派というか推進派の主な主張は、府と市の二重行政廃止、それによる行政コストカット、特別区による身近な住民サービス拡充、大阪府の成長戦略への寄与といったところでしたね。

一方、反対派の主張は、二重行政の実態は既に無い、都構想と言うが実は大阪市廃止、政令市から特別区への格下げによる予算や権限の低下、移行コストによる住民サービス低下、成長戦略の実体はIR誘致だけ、コロナ禍の混乱時にやるべきではない、一度否決されたのに勝つまでジャンケンはアンフェア、といった点でしたね。

 

つまり、争点の中身が住民には検証が難しいので、そこがまず「わからない」。それに加えて、賛成派がマルという点のことごとくに反対派はバツを出したわけなので、もうどちらを信じていいのか「わからない」という、二重行政ならぬ二重疑問になっていたと思うね。だから「わからない」のもしょうがない。

さらにさらに闘いの構図を見ても、推進派という攻める方が勢いがあるのが普通だと思うけど、データも多く持っているので説得力があるわけだし。ところが推進派といういわば攻めている側が、「大阪市を守ろう」という反対派に攻められるという構図なので、よけいわかりにくくなったというか。

 

なるほど、それがマスターの「わかりにくい」の分析ですね。その話はわかりやすいですね。

 

大統領選じゃあるまいし、二択で決めることなのかという素人の直観的な疑問もあるけどね。アメリカの大統領なら任期があるので、どちらになっても期間限定の選択ですむけど、市政廃止は長期的なテーマだもんね。

 

これは私見ですが、住民投票というのは本来、政治家や専門家が熟議した結果、たとえばどうしても10%のリスクは回避できない、または10%の住民にとってはリスクがあることが分かったけど、そのリスクを受け入れてもらえるかの最後の判断は住民にしてもらおうということで行うべきじゃないでしょうか。

今回は「メリット100%」と言っている賛成派と、「リスク100%」と言っている反対派が対立していて、そのどちらかを選ぶというのでは、住民投票の意義にそぐわないのではないかと感じます。

まさに今マスターが言ったように、4年任期の大統領を二択で選ぶのとは訳が違います。そのはざまで悩んでしまう人も多かったのではないですかね?でも、その真面目に悩める人たちに向かって「わからないなら反対」と言うことに違和感があります。

 

あなたは「わからないなら反対」は乱暴な思考停止のすすめで、「わかった上で反対を」とか「わからないなら棄権」が筋じゃないかと言っていたけど。あたしは、そうは思わないね。

 

「わからないなら反対」はコミュニケーションとして正当であるという考えですね?でも「わからないなら反対を」というメッセージが通るなら、「わからないなら賛成を」も「わからないなら棄権を」も通ってしまうんじゃないですか?何でもありの言いっぱなしというか。無責任な主張と感じましたが。

 

理屈としてはそうかもしれないけど、本当にわからなくて悩んでいる、もしくは賛成したいわけじゃないけど「反対」と投票用紙に書くほどの自信がない、といった人たちの想いに応えられないんじゃないか。むしろ「わからないなら反対」というのは、そんな迷っている人たちの背中をそっと押してあげるメッセージとして機能すると思うね。

だって、そもそも世の中わからないことだらけだし、わかったつもりでやって失敗することって多いよ。「生兵法は怪我の元」っていうじゃない。「危ない橋は渡らない」とも言うしね。「わからないなら反対」は、そんな庶民の直観というか生活知にフィットしていると思うよ。

 

なるほど、「危ない橋は渡らない」ですか。「わからないなら反対を」よりは納得できますね。

 

そう。そんな気持ちをコピーにしたチラシを考えてみたんだけど見てくれる?まず、オリジナルはこちらね。

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で、「わからないなら反対」という考え方で作ったのがこちら。これだけじゃ印象操作にすぎないので、裏面にはなぜ反対なのかの理由はしっかり書かないといけないけどね。

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なるほど。「わからないなら反対」を「危ない橋は渡らない」感覚で言ってみたわけですね。ちょっと理屈っぽいですけど。

 

理屈っぽさは、たぶん大阪弁で書けば薄れるんじゃない?大阪弁がわからないので、こんな感じになったけど。で、もうひとつ「危ない橋を渡る人は賛成して」と逆説的に書いたのが、こっちの案。

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 あなたは、そんな無謀な人じゃないですよね、と言いたいわけですね。表面的に読まれてしまうと、本当に賛成を促していると勘違いする人が出てきそうですが。

 

そうか。いずれの案も「わからない」で賛成してしまうことの危険を言ったつもりなんだけど。

 

それはわかります。僕が言いたいのは、そもそも「わからないならどうしろ」ということ自体が余計なお世話だということです。そして、コミュニケーションする相手に「あなたはわからない」と言ってしてしまうことが、まともなコミュニケーションとしてはおかしくないか、ということです。

実は推進派も相手を「わからない人」と決め付けていたんですね。「大阪都構想の制度は車の設計図。設計図がわからなくても車は運転できる」と説明していたことがあると聞きました。これは言い換えれば「わからないなら賛成を」と言っているわけです。

賛成派も反対派も、そもそも「わからないなら」が前提。「あなたの頭ではわからない高度なこと」だからとにかく賛成しとけ、または反対しとけ、という発想なわけですね。

 

そうなんだ。

 

広告コミュニケーションでも「わからない」ことはたくさんあります。というかほとんどは広告だけでは伝わらないんじゃないですか?100円のお菓子から、何千円のサプリメント、何万円のスキンケア、何十万円の家電、何百万円の車、何千万円の住宅まで。

たとえば「このアイスは、くちどけしっとり」と広告で言われても、食べてみなきゃ「わからない」。さらに個人の感覚で違うので、食べても「わからない」人だっています。「わからない人」はもう買わないでしょう。

 

大阪都構想の場合は、次はもう買わないとは言えないしね。

 

高額商品だと、どうでしょう。「これが8Kの美しさ」とCMで見せられても、そのCMを見ているテレビが旧式の液晶だったら、その美しさは分からないはずです。パナソニックのテレビの画質は、東芝レグザで見ていては分からない。

 

で、カタログを見ても分からないので、販売店の店頭で比較して初めて実感できる。でも大阪都構想は店頭で実感することはできないね。

 

車のCMで「家族の夢を実現」と言われても、その車の性能や質感は見て、触れて、運転してみないと「わからない」わけです。しかも車の場合、そもそもそのメーカーが好きかどうかも基準になります。スバリストはスバル車の中から選ぶわけで、そもそも日産車は選択肢にありません。

 

維新ファンは賛成しか選択肢がないということかな。

 

そして、車は購入する時点では、性能や燃費などのカタログ値、デザインなどの見た目では選べますが、その車から得られるエモーショナルな満足感は、乗り続けていかないと実感できないでしょう。広告の訴求だけでは「わからない」ことだらけなのです。

大阪都構想の場合は、車のように試乗できませんし、事前に「わかる」ことができるのは、車で言えば基本的な性能のカタログ値や価格ですが、そこを大阪都構想は車の設計図なので、素人にはわからない」と言われては困ってしまいます。

 

しかも、車なら購入した後で「あれ、ちょっとちがう、失敗かな?」と思っても、「車検まで乗って下取りに出すか」となるけど、こっちは一度決まれば「次の住民投票までは特別区でいくか」というわけにはいかないわけだね。

 

付け加えて言うと、商品や企業の広告コミュニケーションは、マーケットの中で「どれを選んでもらうか?」「どこを選んでもらうか?」かで有利に導くことと言えます。しまし「もともと買う気が無いものに関心をもってもらう」という、ウォンツやニーズへの気づきを与えることも大事な役割です。

今回の住民投票について言えば、投票用紙には「賛成」か「反対」のどちらかを書くので、投票所の中では大阪都構想を「買うか?買わないか?」の二択しかないのですが、そこに至るまでに、賛成派は「大阪都構想のウォンツとニーズ」に気づいてもらいたい。

反対派は「そんなウォンツやニーズは無い」または「大阪市には別に優先すべきウォンツやニーズがある」ことに気づいてもらいたい。という想いでコミュニケーションされるべきでしょう。

それを「わからないなら反対」と言い切ってしまうのは、コミュニケーションとしては乱暴かなと思ったわけです。

 

筆者については・・・

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大阪都構想反対のチラシ代案の答え合わせ。自分だったらこうする、で表現のトレーニングを。

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ヒョウ柄を超えられるか?」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)カフェラテください。

大阪都構想住民投票の結果が出たね。この前話していた、立憲民主党のチラシの話の続きをしようか。もうあたしの案が結果を左右しないだろうから。

 

ははは、そうですね。結果が出たところでマスターの案を見せていただくんでした。あくまで大阪都構想の是非という政治的な視点ではなくて、あのチラシを素材にした表現の答え合わせということで。まず、素材となるオリジナルのチラシはこちらですね。

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まずは、1案目ね。オリジナルのメインビジュアルで使われていたイラストは使わずに、大阪市にいらんことせんとってや、ほんま。」というコピーを活かしたんだけど。

で、知らなかったんだけど、そもそも選管が作った投票を呼び掛けるポスターの写真が、「投票」にかけて「ヒョウ」だったんだね。そういう意味では、それとリンクしているヒョウ柄はやっぱり秀逸だったのかな。

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作る前にYouTubeとか見ていて気づいたんだけど、大阪都構想って住民投票の正式名称じゃないんだね。大阪市を廃止し特別区を設置するについての投票」っていうのが正式なのね。投票用紙にも「大阪都」とは一言も書いてないんだね。全ての大阪市民が知ってたのかしら?その気づきを、サブコピーとして入れてみたんだけど。

 

なるほど。それを知らなかった大阪市民には効果はあると思いますが。このクマはなんでしょうか?

 

たしかオリジナルのコンセプトに「かわいい」というキーワードがあったんで、あたしなりにかわいい感じを出したつもり。で、やっぱり、この「いらんことせんとってや、ほんま」というコピーは、オリジナルではなんか諦めのつぶやきに聞こえたので、もっと怒ってるぞ感を出したいと思ってね。

 

なるほど。それでコピーが大きく主張しているわけですね。でもまだクマの理由がもう一つ分からないのですが。クマって大阪と関係あるんですか?

 

まったく関係ないね。初め道頓堀のグリコのサインが怒っているというアイデアを考えたんだけど、使用許諾が出ないだろうからクマにしたんだけど。そのココロは、人間じゃないものに言わせたかったのね。人間だと、また衣装とかポーズとか言われるかもしれないと思って。

 

子育て中の家族に関心を持たせるためには、いいかもしれませんね。一発だとインパクトが無いですが、3点とか5点でシリーズにすれば楽しいですね。ちなみに、オリジナルでは「大阪市廃止にNO!」となっていましたが、大阪市廃止に反対!」に変えていますが、これはどうしてですか?

 

それは実は大事なところなのね。投票用紙には「賛成」か「反対」のどちらかを書かないといけないのね。そこに「NO」と書くと無効になっちゃうんだよね。だから、「大阪市廃止にNO!」と覚えて、間違って「NO」と書かないように、ここはあえて「反対」にしたわけ。

 

なるほど、いいところに目が行きましたね。オリジナルは、そのあたりも気が配られていないんですね。

 

イデアレベルなんだけど、「ヤカンが沸騰して怒ってる」「がま口が大口を開けて怒ってる」というのは、どう?

 

なるほど。庶民の怒りを生活感のある物で表現するというわけですね。いいかもしれませんね。せっかくなので、もう1タイプあるといいですね。

 

その場合は、コピーは怒ってる感を出したいね。制作者は「素朴な疑問を出し合って、出てきたもの」と説明してるけど、「素朴な疑問」というより、なんか「素朴な諦め」に感じるんだよね。意志を感じないというか。大阪弁のニュアンスがわからないからかな?

 

まだあるんですか?

 

はいはい。コピーは同じで、こんなの。

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なるほど。あなたの疑問や意見を寄せてくださいというわけですね。それで寄せられたコメントはサイトで公開していくと。この投稿スキームは作れると思いますが、WEB担当者は大変でしょうね。

また、WEBに親和性がない人には効果は弱いでしょう。一方、根っからのジモティーではない転勤族のビジネスマンや学生などの若い層には効くかもしれません。

 

そうなのか。

 

でも、こういうコミュニケーションは、さまざまな声があるという事実を伝えることはできますね。そこには、いろんな角度があるでしょう。真剣に考えている人、ぼんやりと考えている人、あまり考えていない人、なんとなく不安な人など。そういうさまざまな想いを持っている人たちに寄り添うという、共感も生まれるのではないのでしょうか。

 

あとは最初に言った、実は大阪市廃止なんだぞということを言いたい案が、これ。「大阪都構想の裏に隠された、大阪市廃止」を言いたかったんだけど。

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はい、以上です。オリジナルで描かれた人物の衣装がヒョウ柄じゃなかったら、どうなっていたんだろうね。親しみのある、いいイラストだと思うので残念だよね。

 

広告に描かれる人物やキャラクターは、いろいろな立場があります。たとえば、企業のメッセンジャーという立場の、いわゆるブランドアンバサダー。これは消費者の等身大の存在ではなく、そのブランドが理想とする存在でいいわけです。

その理想は商品によって違ってきます。たとえばハリウッドセレブご用達のシャンプーなのか、優しいママが使うシャンプーなのか。そのブランドが目指す理想の存在ですね。

 

「ああなりたい」という理想像ね。

 

広告で描く世界も「そうなりたい」を描くことが多いのですが、「そうなりたくない」を描くこともあります。恐怖訴求のような場合ですね。「そうなりたくなかったら、この保険を」とか。でも、恐怖訴求によってネガティブな感情が喚起されて、そのブランドに対してネガティブなイメージを持ってしまうこともあります。

 

たとえば、どんな?

 

2007年にUCLAの研究チームが、被験者にいくつかのCMを見せて、その脳の活動をfMRIというMRIで見るという実験をしました。そこで見せた2006年のスーパーボウルで流れたゼネラルモーターズのCMのストーリーは次のようなものでした。

主人公は、自動車工場の組立ラインで働く一人のロボット。そのロボットがネジを一つ落としてしまいます。そのために全ての組立ラインが停止。それが理由で、そのロボットは解雇され、家も失い路頭に迷うことに。そして、とうとう橋から身投げしてしまうんですね。

その瞬間、ロボットの目が覚めます。すべて夢でした。そんな「緊張感で働いている」GMの従業員の完璧さを伝えるCMでした。

 

オチはそこなのね。まあ、向こうらしいストーリーと言えばいいのかね。実際のCMを見ていないからニュアンスがわからないけど。

 

とてもクオリティの高いCMなんですけどね。もっともこれはカンヌなどの広告賞を狙った作品でもあるので、審査員のウケを狙ったということもあるんですが。でも、このCMを見た被験者の脳をfMRIでスキャンすると、恐怖、不安、闘争、逃走などの反応を生み出す脳の扁桃体に変化が現れたんですね。

 

つまり、そのCMを見た人の脳は「GMはすごい」とは反応せずに、怖いとか不安とかの反応をしたわけなんだね。

 

そういうことになっています。あるセレブの悲惨な末路を描いた「セレブだって一寸先は闇、そうなった時のために」という年金会社のCMにも、脳は同じ反応を示したということです。

 

つまり、広告で描かれた人物や人生に自分を重ねてしまうということかな。で、表現の内容によっては、それは自分のことだと思うこともあれば、そんな人生はイヤだと思ってしまう。

 

ネガティブなメッセージだと、制作者の意図とは違って、結果的にそのブランドにネガティブな感情を引き起こしてしまうということですね。

 

もしかしたら、あのチラシに画かれていた人物にも「あれは自分だ」と共感するより、「私は違う」「ああはなりたくない」と反発してしまったのかもね。だとしたら「こんな人はイヤ」イコール「大阪都構想反対はイヤ」と思われたなら、まさに逆効果だったのかもね。

 

そうですね。「反対」をエンドースをする場合、そのエンドーサーは慎重に設計しないと危険ですね。じゃあ、あれがおしゃれなミセスだったらどうだったかと言うと、反感は少なかったと思いますが、その分インパクトも無かったでしょう。

 

ネガティブなメッセージを伝える広告は難しいということなのかな。同じことを言われても「だれに言われたか」で、正反対の感情を喚起してしまうのが人間なんだね。内容の良し悪しでなく「好きなあの人が言うなら私も」「嫌いなあの人が言うなら私は逆」とか。

 

ともあれ、既存の広告を「自分だったら」と考えてみるのは、表現のトレーニングになると思いますよ。で、オリジナルと比べて検証してみる。そうしていくうちに、自分の表現力が磨かれていくこともあります。また、気になる広告表現があったらやってみましょうか。

 

筆者については・・・
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コロナ恐怖症になる?コロナ平気症になる?それとも、しっかり怖がる大人の対応でいく?

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「極端に走らないのが大人」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)今日はキリマンジャロで。

コロナがどうなっていくか、この先もよく分からないけど、コロナを極端に恐れるコロナ恐怖症的な人と、コロナなんか全く気にしないコロナ平気症的な人が現れてきているんじゃない?

 

コロナ恐怖症とコロナ平気症ですか。それはマスターの造語ですよね?

 

そう。あたしはコロナ恐怖症でもコロナ平気症でもないけどね。お店やっているので、しっかり怖がって、しっかり対策するという感じかな。

 

恐怖症といえば、まずは高所恐怖症が思い浮かぶけれど、たしか閉所恐怖症、先端恐怖症、蜘蛛恐怖症、暗所恐怖症、対人恐怖症、不潔恐怖症とかもありますね。

 

今、Googleで検索してみたけど、高所恐怖症は「高い所が苦手」といったレベルとは違うようだね。それは「高所恐怖癖」と言うんだって。本当の高所恐怖症の人は、1メートルの高さでもダメな人もいるらしい。

 

恐怖癖は、人によって日常の中にいろいろな対象がありますよね。個人的なトラウマだけでなく、経験と知識によって心に刻み込まれたものなのでしょうか。

 

恐怖症にしても恐怖癖にしても、その対象は、多くの人にとって「苦手なもの」だね。閉所も暗所も不潔も蜘蛛も、ほとんどの人が苦手なものだし。まあタランチュラ飼ってる「蜘蛛大好き」な人はいるけど、普通の人は苦手だもんね。

蜘蛛は無理としても、あとは我慢の限界があるけれど絶対に耐えられないというわけではない。絶対に耐えられない恐怖を抱く場合に恐怖症と呼ぶのかね。

 

一方、平気症の場合は、多くの人が絶対に耐えられない恐怖を抱くものに対して、全く平気なことですね。

 

高所平気症は、タワーマンションなどで生まれ育った子が、高い所を怖がらなくなって危険な場合がある、ということでしょ?

 

「恐怖症」は医学用語ですが、「平気症」はそういう社会現象につけた造語だと思います。なので、両者を同じ次元で比較することはできないでしょう。

それは分かった上で「恐怖症」はその状況や対象に耐えられないほどのリスクを抱き、「平気症」はその状況に全くリスクを感じないという精神の状態だけれど、ほとんどの人はそのどちらでもなく、恐怖と平気の間のどこかで反応しますよね。人によってグラデーションはありますが。

 

みんな基本的に高い所は苦手だけれど、我慢できる限界はそれぞれだよね。2階のベランダからは下を見られるけど、東京タワーの展望室の覗き窓は無理とか。40度の風呂が熱い人もいれば、ぬるいという人もいる。富士急ハイランドの「ええじゃないか」が楽しい人と、荒川遊園のジェットコースターでもうダメという人もいる。まあ、どっちでもええじゃないかだけど。

 

そういえば、荒川遊園はリニューアル工事のために休園中ですね。

 

え、無くなっちゃうの?あの日本一遅いと言われていたジェットコースター。こどもの店は?よく、もんじゃ焼きでビール飲んでたんだけどね。

 

それは知りませんが。恐くて嫌なものに対しては、ギリギリまで妥協しながらリスクからなるべく遠ざかっていくという対応が普通ですよね。しかもその距離感は人によって様々です。コロナだってそういうことなのではないでしょうか。気持ちで言うと「しっかり怖がって、しっかり遠ざける」ということでしょうか。

 

なるほど、「しっかり怖がる」ね。じゃあ、あたしの考え方は間違っていないね。コロナは、もう日常の中に普通に漂っている恐怖だもんね。

 

そうでしょうね。

 

だったら、コロナ恐怖症になって絶望して、感染リスクの恐怖に囚われて動けなくなる、感染した人を忌み嫌う、コロナ警察になるのではなく、一方、コロナ平気症で、自分は罹らない、コロナを怖がっているやつはアホとか両極端になるのではなく、しっかり怖がって遠ざけていく、という距離感しかないね。

 

コロナとの心理的、社会的ディスタンスですね。基本的なルールは守りながら、その上でどこまで距離を置くかは、それぞれの常識でしっかり判断するというか。

 

非常事態宣言が出た時も、出かけていいのかいけないのか、国と都の言っていることが分からなくて困る、なんて思ったけど、まあ、いい年こいてそこは大人の常識で考えようと考え直したもんね。2メートルあけろと言うけど、じゃあ2メートルびた一文欠けたら効果ないのかとか悩んでいてもね。分かりやすい目安なんだもん。国によっても様々なようだし。メートル法じゃない国もあるしね。

 

息苦しければマスクは外していいと言っても、それはその人の個人的な感覚と事情ですからね。

 

国だって何がベストなソリューションか、答えは持っていないんじゃない?だったら今のところベターな選択しかないでしょう。そこは自分で家族や地域を守るために、モアベターな行動をしていくしかないよね。

 

モアベター」って。懐かしい、小森のおばちゃまですね。でも、各自が身の安全を守り、周りに迷惑をかけない常識的な判断でというのではなく、あくまでお上のお墨付きがほしいという気持ちも分かります。

 

当然、感染予防のガイドラインを作るのはお上の仕事だけど、やれ「マスクしないと罰金」「出歩くと逮捕」ではなく、法的な根拠はともかく「どうか自粛をお願いします」と言って、国民の良識を信じてくれている国であることは、喜ぶべきことだよね。これ皮肉だけど。

 

強制しないから責任も持たない、では困りますけど。いずれにしても、科学的に全て解明されているわけではないし、年齢も、家族構成も、住んでいる地域も、仕事も、コロナに対する考え方も、全てが多様なこの社会に対応するのに、「これが正解だ」とベストな解を出すのは難しいですよね。そもそも専門家といわれている人たちだって意見が分かれることがあるのに。

 

やっぱり今は、国もあたしたちも、少しでも前へモアベターに行動していくしかないんじゃないかと思うけどね。

今までの色々な基盤が壊れてしまったのだから、ベターとか修復とか生ぬるいこと言ってないで、この際一気にマッサラにしてベストを目指すという考え方もあるだろうけど、まずはせめて元の生活を取り戻したい、というのがあたしら庶民の願いだね。なんせ、あたしは保守的なオトナなもんで。

 

筆者については・・・

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ロックレス式パーキングとロックダウンしない社会。人を信じているのか、コストカットのためか?

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「ロックレスは誰のため?」

 

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)コーヒーください。

きのう車を停めた道灌山下のコインパーキングに、ロックする板が無かったんだけどさ。初めてだよ。

 

最近ちょくちょく見かけますね。

 

機械の出っ張りを気にしなくていいので、すごく停めやすくて良かったね。車が大きいので、あの出っ張りがあると切り返しの時にめんどくさいんだよね。その点、機械がないと、とにかく枠内に停めればいいので、駐車が苦手な人にはかなり便利なんじゃない?

 

たしか「ロックレス式」って言うんですね。機械を気にせず停めやすいという利用者側のメリットもありますが、ロック板が無いことで、車が機械にぶつかって壊れるトラブルが無くなったり、メンテナンスのコストを減らせるという設置者側のメリットもあるらしいですよ。

 

工事も簡単そうだしね。地面に機械を埋めなくていいわけでしょ?

 

さあ、それはどうでしょうか・・・

 

それで、いつもの習慣で普通に停めて普通に料金を払ったんだけど、よく考えたら、あれって払わなくともロック板が無いから、そのまま出庫しようと思えばできちゃうんだよね。もしかして警報とか鳴るのかな?踏み倒す人っているのかね?

 

意外といないような気がしますけど。今度試してみたらどうですか?

 

いやいや、やめとくよ。でも、ずいぶん人を信用した仕組みだよね。そんなに信用しちゃって大丈夫なのかね。信用されると逆に裏切れないという人間の心理を利用しているのかな。

そういえば、普通のコインパーキングで、ロック板が上がってこないように、板の上にタイヤを乗せて停めているという不届き者を見たことがあるよ。上がっているロック板を強行突破したオフロード車も1回見たな。すごい音がしてたけど、あれじゃ機械が壊れちゃうよね。セルフレジというのもそうだよね。

あと、畑で獲れた野菜をその場で直売しているのを見るけど、あれも信用が前提だもんね。

 

野菜は直売用の自販機が開発されています。けっこうなお値段ですけれど。

 

エコバッグ万引きが横行する世の中で、ルフレジはかなりの性善説システムだよね。

 

店員さんの顔が見えるお店からモノを盗むという、リアルな実感を伴う万引きに対して、誰が困るかその場では顔が見えなくて、さらに目に見えるモノではない駐車料金を踏み倒す方が、心理的なハードルは低そうですね。

 

ところで、ロックレス式の場合、もし料金を踏み倒して出庫したら、車の持ち主ってバレるの?

 

ええと・・・今、Googleで調べてみましたが、「ロックフリー式」「フラップレス式」とも言うらしいですね。料金が払われなかった場合は、駐車場会社が、被害を受けたという理由で、備え付けのカメラで記録されたナンバーの情報開示を請求すると、車の所有者を教えてもらえるらしいですね。

 

ナンバー照会は、警察じゃなくてもできるんだ?誰でもできるの?

 

個人ではできないでしょう。ええと、ナンバーの照会を申請して国交省の審査が通れば、自動車の登録情報を管理している協会を通じて、有料で提供される仕組みらしいですね。自動車の登録情報は個人情報保護法の適用外みたいです。

 

車の持ち主が特定されて請求が来るのか。それでも逃げ続けていると、どうなるの?

 

どうなんでしょう。もし被害届が出ていれば犯罪になるんじゃないですか?たぶん前科のある車が次に停めると、そのカメラの情報がチェックされて、駐車場会社に通報が行くんだと思いますが。

 

なるほどね。対策はされているようだけど、じっさい商売として大丈夫なのかね?たとえロック板と監視カメラの設置費に差が無かったとしても、ナンバー照会の費用と、それでも踏み倒される損害のリスクが加算されるわけでしょ。

 

おそらくロック板を設置してメンテナンスしていくコストより、ナンバー照会したり、万一踏み倒された時のコストの方が低いと織り込んでいるから成立しているスキームなんじゃないですか。これは僕の勝手な想像ですけど。

 

だとしたら、人の良識を信じているかのように見せて、実はコスト削減を狙っているんだ。

 

というか、その両面じゃないですか?さらに、さっきマスターが言ってたように、ロック式に比べて圧倒的に停めやすいというユーザーのメリットがありますよね。そのメリットは、もし近くに別のロック式パーキングがあった場合には、選択肢として有利なんじゃないですか?

 

なるほど。こっちを信用してくれて、さらに便利に使わせてもらって、それで踏み倒すなんて、恩を仇で返すようなことはできないというか。ま、駐車する時にいちいち深く考えないけど、直観的には感じるかも。

 

パーキング会社の経営者が、そういう経営効率の視点で帰納的に考えているわけではなく、もしかしたら、人を信頼する社会に貢献したいという経営哲学を持っていて、このシステムを、そういう社会の起点にしたいという演繹的な発想なのかもしれませんね。そこは聞いてみたいところですね。

 

信頼が手段なのか目的なのか。はたまた両方なのか。

 

当然、会社にしてみれば、まずはパーキングというサービスを買っていただくお客さまへの信頼が無ければ、ビジネスの出発点に立てません。そういう意味では、ロックレスパーキングは、信頼関係の上に契約を結ぶビジネスの王道なのかもしれませんね。

 

なるほど。極端に言えば、ロック式はお客さまのことを信用しない前提のビジネスということも言えるかもね。

 

性善説が経営的にメリットをもたらしているのであれば、社会に対する企業の価値は高いですね。底流にしたたかな計算があったとしても。結果的に信頼が社会に広がっていくことにつながると思います。

 

今思ったんだけど、利用者の良識を信じてというか頼って、結果コストをかけないですむという考え方は、自粛という国民の良識に頼って、コロナ対策にかかる財政的、社会的コストをかけないというやり方と、どこか似ているような気がするね。

信頼が先か、コストが先か。国民を信じているからロックダウンしなかったのか、補償のコストをかけたくないからロックダウンしなかったのか。どっちなのかね?それとも、どっちもなのかな?

 

「国民性を信じて」というのと「国民性を利用して」というのは、反対の発想ですが、国民を信じているっていう方を信じたいですね。

いずれにしても、感染拡大という側面では、ソリューションは機能しているように思います。そのベースに「頼るに足る国民の良識があった」からこそ成立しているソリューションですね。

逆に言えば、そういう良識のある国民性が失われるような手を打つことが、最悪のソリューションとなります。

 

人にうつしたら罰金とか?

 

それは一見、課題解決の一選択肢のように見えるかもしれませんが、本質は「人とは信用ならないものである」とする人間観の選択だと思いますね。

 

それを言い出す人には、なにか人を信用できなくなったルサンチマンとかあるのかもね?

  

筆者については・・・

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短いフレーズは心をキャッチする。飲み込める。反論しにくい。俳句、広告、ワンフレーズポリティクス。

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「スカッとしても解決しない」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)緑茶にしようかな。

前回の川柳の続きを考えておいたよ。

 

へえ、さっそく聞きたいですね。

 

では一句。「そば寄るな コロナの前に 汗臭い」。感染予防の前に、エチケットとしてシャワー浴びるかフィジカルディスタンスをとってほしいね。

 

八つ当たり的な感じですね。ぜひ一句読んで、怒りをしずめてください。

 

「マスクせず 売り場で走る 元気な子」。スーパーマーケットの一コマ。

 

それは「信号を 赤でも渡る 元気な子」のパクリですね。

 

「昔から マスクで爆走 なめんなよ」。白バイへの怒り。

 

状況がまったく分かりませんが。マスターは元族でしたけど、関係あり?

 

そう。うちはカミさんもスケ連だったし。知ってる?全国スケ番連合会、略して「スケ連」。

 

知りません。その一句は何にムカついたんですか?

 

きのう、マスクした白バイに捕まってムカついたのを思い出してさ。こちとら中坊の時からマスクして単車転がしてんだ。白バイのくせにマスクして偉そうにすんな、と。今思い出してもいまいましい。

 

なんか大変な逆ギレですね。そもそも中坊のマスクは、感染予防じゃなくて停学予防でしょ。とまあいろいろ検証してみましたが、一句読んで怒りが増すようじゃ、逆効果かもしれませんね。

ムカっと来たらまず一句というアイデアは、どうもダメですね。普通に6つカウントした方が、アンガーマネジメント上は効果があるようです。

 

でも俳句や川柳は、たった17文字で伝えるすごい文化だよね。

 

そうですね。コピーライターの視点で言うと、俳句は短いゆえに、理屈としてどこがどうおかしいとか揚げ足が取りにくし、反論しにくいんですね。なんせ17ページとか17行ではなく、17文字しかないんですから。

文章は短いほど揚げ足を取りにくいという説がありますが、そういう意味では論文などが最も揚げ足を取りやすく反論しやすい文章です。長文な上に、ロジックとエビデンスのかたまりですから。

 

短さで言えば、俳句じゃないけど「人間だもの」とか言われると、もうどうしようもないもんね。反論できないよね。

 

はあ・・・

 

広告のキャッチフレーズが短いのも、揚げ足を取られないというか反論されないため?

 

結果としてはそうとも言えますね。広告は「出会いがしらが勝負」などと言われます。出会った瞬間にキャッチしないとスルーされてしまう。文字通りキャッチフレーズですね。揚げ足を取られる前に飲み込ませるというか。

別に飲み込みやすくなくてもいいんです。のどに小骨が引っかかって、「ん?」と立ち止まらせる力があれば。それはキャッチしたということですからね。そういう意味でも、あまり文字数は多くならない傾向があります。

 

読まれるシチュエーションも関係あるよね。電車の中吊りなら、とりあえずは降りる駅までは読んでもらえそうなので、キャッチ一発より多少読ませるコピーの方がよいとか。電車の額面広告で読めないくらい小さい文字のものがあるけど、あれはどういうことなの?

 

視力がよい若い人向けの広告とかでは?でなければ、マックのモニター見つめてデザインして、デスク上で校正して、実際の掲出位置を想像していなかったんじゃないですか?または、雑誌広告の単純なリサイズを掲出したとか。

 

なるほど。逆に駅の通路のポスターは、立ち止まって読んでいると通行の邪魔だよね。

 

そうですね。テレビCMも、タイムシフトではなく普通に観ている場合は、やはり出会いがしらが勝負でしょう。そして、YouTube「バンパー」にいたっては、もう出会いがしらしかない。「なになに、もう一度観てみたいな」と思うこともありますよね。

 

それも狙いなんだね。でも、だいたいは平凡な6秒間に付き合わされてイラっとすることが多いけど。

 

それは、言ってみれば15秒CMの6秒版になっているからでしょう。そういう意味で「バンパー」は、テレビCMとは全く異なるコンセプトのコンテンツと考えた方がいいんですね。

俳句の話に戻ると、短い言葉は、全貌が明かされないから、それぞれの頭の中で都合いいように想像できますよね。逆に、長い文は全貌が分かってしまう分、突っ込みどころが出てきてしまう。

だから、店員さんであれ、経営者であれ、政治家であれ、短い言葉で伝える技術を持っている人は、コミュニケーションの達人と言えますね。コミュニケーションセンスがいいんです。

 

センスね。正しいことを言っているのにクドかったりすると、共感は生まれないもんね。コロナの対応の話でも、複雑で歯切れが悪くてまだろっこしいなと思う人と、ズバッと言い切る人がいるけど。

 

コロナに対してズバッとソリューションを提示することは難しいでしょう。医学的にも社会的にも経済的にも、さまざまな言説が飛び交っているのも、一筋縄ではいかない複雑かつ未知の課題なので、しょうがないとも言えますよね。でも「ズバッと言ってくれ」と思ってしまうのが人情ですよね。

そういう時に、ズバッと言い切ってくれる人が現れると、スカッとすることもあるでしょう。正しいとか正しくないとかの次元ではなく。

 

「よくぞ言い切ってくれた、ああスカッとした」と。ある意味では、コミュニケーションのセンスがいい人なんだね。

 

でも、ズバッと言ってもらって自分がいくらスカッとしても、それがイコール課題の解決にはならないかもしれませんよ。複雑なことをワンフレーズで言い切られた時は要注意と考えてもいいんじゃないですかね。スローガンの達人が、ソリューションの達人とは限りません。

 

ズバッと言い切ってもらえたスッキリ感と、課題が解決したスッキリ感を混同してはいけないということかね。でも人間って、そのスッキリ言い切ってくれた人について行ってしまいがちなんだよね。

 

筆者については・・・

 

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YouTubeの頭に流れる6秒のバンパー広告と、6秒のアンガーマネジメント。6秒はクールな時間?

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「マスクしろ わざわざ近寄り 注意され」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)紅茶はニルギリにしてください。

先週は、立憲民主党が出した大阪都構想反対のチラシが炎上したことについて話したけど。

 

そうですね。どう伝わるかへの想像力が大事という視点でした。

 

で、こうしたらいいんじゃないかというのを、ちょっと考えてみたんだけどさ。見てくれる?

 

マスターがですか?それでは、投票が終わって結果が出た後に見ましょうか。それまで楽しみにしていますよ。

 

そうか、あたしの案が結果に影響しちゃ、まずいもんね。

 

それは、100パーセント無いでしょうね。

 

それで急に大阪都構想のことが気になってYouTubeとか見てみたんだけど、賛成、反対ともたくさんの動画が上がっているんだね。で、頭に短いCMが入ることが多いでしょ。スキップできないんだよね、あれ。2回続けて入ることもあるしね。こういうの、流行りなの?

 

「バンパー広告」ですね。6秒のみですが、スキップできないので強制的に見ざるをえません。そうではなくて「この広告は5秒後にスキップできます」というタイプは「True Viewインストリーム広告」と言います。

 

テレビCMは6秒とか短くないのにね。

 

日本のテレビCMは、番組の間に流れる15秒のスポットCMと、番組内に流れる30秒CMがメインです。たまに60秒や、一社提供番組の中では90秒や120秒のCMが流れることもあります。

15秒でも充分短いですが、「バンパー」の場合は、たったの6秒で何を伝えるか、どう心に残すかの勝負です。いつも15秒CMをメインに考えている日本のクリエイターは「バンパー」は得意かもしれませんね。

とはいえ、15秒と6秒では、コミュニケーションの目的も構造も違ってきます。「6秒の瞬間芸というのが順当な考え方ですが、6秒間でわざと謎を残しておいて、その先はキーワードを頼りに検索してたどり着いてもらうとか、可能性はいろいろあると思いますね。

 

テレビCMも、そのうち6秒とかになったりして。

 

6秒というCM枠ができればありえますね。局としては、その分オンエア回数が増えて増収になるかもしれません。6秒とは関係ないですが、15秒枠はそのままなのですが、その15秒の中に5秒CMを3段積みで流した例もありました。これは目新しかったですね。

 

全く同じCMが続けて流れることは、たまにあるよね。

 

反復の効果を狙っている場合と、スポット用の15秒素材しか作っていなくて、30秒の番組タイム枠で仕方なく2段積みで流している場合とがありますね。

 

なるほど。話は「バンパー」に戻るけど、そもそもなんで中途半端な6秒なわけ?5秒とか10秒とかじゃなくて。

 

それはGoogleの深い深い分析の結果、6秒という結論になったのでしょう。根拠はあるはずですが。

 

「人間の我慢の限界は6秒」というのが根拠とか?

 

どうなんでしょうかね?「バンパー」とは関係ないと思いますが、「アンガーマネジメント」という、人の怒りを予防してコントロールするための心理療法プログラムには、「6秒ルール」という法則があるそうですよ。

人が怒りを覚えた時にはアドレナリンが分泌されますが、怒った6秒後にその分泌のピークを迎えるらしいんです。なので、その6秒間をやり過ごせば、人はじょじょに冷静さを取り戻していくという科学的な根拠があるらしいですね。

 

なるほど、「ムカッと来たら6秒待て」ということね。「バンパー」にしても「アンガーマネジメント」にしても、6秒というのが何か意味深だね。やっぱり関係あるのかな?

 

「バンパー」のことを、Googleは「動画広告の俳句」と言っていますね。さすがGoogle、うまいこと言いますね。

 

でも、俳句って6秒だったっけ?

 

いや、そういう意味ではないですが。

 

試しに俳句を声に出して詠んでみようか・・・「古池や蛙飛び込む水の音」。だいたい4秒から5秒か。抑揚をつけて「古池や~蛙飛び込む~水の音~」でだいたい6秒。お、計算が合ったね。「バンパー広告」は俳句なんだね。

ムカッと来たら、そこで一句読んでみる、というのはどうかね?俳句アンガーマネジメント。俳句は季語とかあって難しいから川柳で。

 

かなり強引な理屈ですね。マスターからお願いしますよ。

  

では一句・・・えーと・・・ 「くしゃみしたら 咳払いして 睨まれた」

 

で、ムカッときたと。まあ、どっちもどっちですね。

 

では次の句。「マスクしろ わざわざ近寄り 注意され」。きのう息苦しかったので、ちょっとの間だけマスクを外して歩いてたら、向こうから来た人が、すれ違いざまにわざわざ顔を寄せてきて「マスクしてください!」と。相手が正しいのかもしれないけど、ムカついたね。

 

では僕も一句。「テレワーク 妻が写って 照れワーク」。Zoom会議中の一コマ。

 

ダジャレかい。そのレベルでは座布団はやれないね。俳句でダジャレと言えば「天才バカボン」だったか、バカボンかパパの句が、勘違いしたダジャレだった気がしたな。

「朝一杯 昼一杯 夜一杯 合わせて3はいくう」とか、「はいく食べよう パンくい競争」だったかな。「俳句」と「はいく」、わかる?ごめん、脱線したね。

 

では、気を取り直して。「ウーバーさん わが家の回り 3周目」。GPSで配達員の位置が分かるんですが、なかなかうちにたどり着けずに周りを迷走している人、たまにいるんですよ。

 

一生懸命働いている人に対して、なんて冷たいのよ。そんな時はムッとしてないで、外に出て手でも振ってあげなさいよ。

では次の句。「歩道でも そこのけそこのけ ママチャリ通る」。これはもう何度危ない目にあったことか。前後に子ども乗せてぶっ飛ばすママもいるし。特に千駄木あたりの不忍通りの狭い歩道を、全速力で突っ走っているんだから。

 

子ども乗せ電動ママチャリは見た目の装備がゴツいので、お母さんにはその気がなくても「そこのけ感」が出てしまいますよね。まあ、急いでいるのでしょう。子どもを乗せて、自転車レーン上の路上駐車を避けてジグザグに車道を走るのも危険でしょうし。

でも、歩道で歩行者を立ち止まらせるような運転は、たしか道交法違反だったような気がします。

 

「川柳でアンガーマネジメント」まだまだできそうだね。また続きをやろう。

 

では続きは後日ということで。考えておいてくださいね。

 

筆者については・・・

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