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コミュニケーションについて、広告クリエイティブディレクターの話

「自助」も「公助」も大事だけれど、「共助」という利他の想いが社会を持続させるはず。

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「助かるのは自分だけ?」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)キームンください。

このあいだ菅総理が掲げた「自助、共助、公助」について話したけど、特に話題になったのは自助のところだよね。コロナで国民がいろいろと自助している今、改めて国から自助を言われたくない、というのが国民感情だと思うけど。

「自粛」と「自助」はイコールではないけれど近いイメージがあるしね。これだけ個人が努力しているのにお店がつぶれたり、解雇されたりしているのに、さらに自助を求めるのか?というのが正直なところでしょう。

 

そうですね。「自助、共助、公助」自体は社会に定着していて、社会にとって必要な理念なんですが、国民の感覚とズレていると捉えられてしまった。「自助、共助、公助」という理念は、実は「防災」と「社会保障」と「自民党の綱領」で使われていて、それぞれ意味が少しずつ違うと思います。

 

社会保障で言うところの自助って、ざっくり言うと「まずは自分で何とかする」っていうことだよね。それをベースとして共助や公助の出番が来るという。

 

諸説ありますが、そう考えることが一般的ですね。一方、防災の場合は「まずは自分で」ということではなくて、つまり「自助、共助、公助」にプライオリティがあるというより、その3つの「助」が総合的に機能することで、相乗効果を発揮できるという考え方ですね。3つのが並走して機能していくことが大事です。

社会保障の場合は、まず自助、それを元にした共助、最後の砦が公助という考え方が一般的だと思います。

もっとも、そのように社会保障を捉えていくと、自己責任ばかりが先に立ち、はなから自助に限界がある弱者を切り捨てていく新自由主義的な政策になってしまうという批判もあります。まずは社会的弱者の存在をベースとした公助の整備が先で、その前提が不十分なままに自助を求めるのは問題ということですね。

 

で、菅さんはどっちの意味で言っているのかね?

 

それは僕には分かりませんが、いずれにしても自助が社会にとっての基盤であり、欠かせない理念であることは間違いないでしょう。

 

そうやって両論併記的にまとめるのはズルいよ。どこかの社説じゃあるまいし。それはそうと、自助っていうと「自分のことだけ考えていればいい」と思いがちだけど、それってエゴイズムになっちゃうんじゃないの?

 

たしかに自助だけが強調されて、共助の想いを持っていない人が増えると、自分だけ良ければ良いという社会になってしまいますよね。社会という視点で考えると、共助を発動するのは、自分が「共同体の一員である」という意識でしょう。その意識が共助という行動となって、自助と公助をつなげて機能させていくのだと思います。

もし自助と公助だけで良いという考え方だと、たとえば道に人が倒れていたら、公助である救急車を呼んで、その場を立ち去ってもいいのかもしれません。普通は救急車が到着するまでは付き添って声とかかけますよね。もし近くにAEDがあれば周りの人と協力して使うとか。

そういう、他者に対する想いが共助を支えているはずです。利他の精神と言ってもいいですね。

 

公園の落ち葉が家の前の道に飛んできていたら、自分の責任じゃないからと、掃かずに役所の公園課を呼びつけるとか。まあ大量に落ちていたら呼んだ方がいいだろうけど。落ち葉を掃く義務はないわけだし。子どもが遊んでいる公園に割れたガラスが落ちていても、拾う義務は無いから放っておくとかね。で、公園課を呼びつけるという。

 

マスターは公園課が好きですね。たしかに個人の義務はないのですが。行政サービスのような公助でやる範囲については、個人の義務は一切無いと割り切ってしまうと、たとえば身近に困っている人がいても、それは行政がやることなので自分は関わらない、という発想につながりかねません。自助と公助の発想しかないと、そうなりますね。

 

そこで共助の出番だと。

 

そうですね。行政は公的サービスという公助を稼働させるべきですが、だから地域に暮らす個人の社会的責任がまったく無くなるわけではないと考えて行動するのが共助でしょう。助け合いは、共同体の構成員の務めであるという考え方です。

常に一定の人がそう考えていれば、共助は成り立つと思います。自助と公助の狭間で忘れられがちですが、実は共助こそ、自助と公助をつなぐ重要な価値観だと思いますね。

 

共助を家族に例えると、家族の一人一人が皆に対して関心や責任を持って、いっしょに暮らしているって感じかな。まあ、家族には関心が無いという人もいるけどね。

 

だいたいそんな感じでしょうか。現実に自助と公助だけで事足りて、共助を必要としないと感じている人はいます。というか増えているかもしれません。しかし、共助は共同体を持続していく上での大事な意識です。それが欠落しては、社会の安心や持続は難しいでしょう。

防災や社会保障の分野だけでなく、社会を営んでいくさまざまな場面で「自助、共助、公助」は存在し、それぞれが補い合いながら機能していくのだと思います。

たとえば学校教育という事業は公助ですが、教育現場を支える職員の共助は必要でしょう。育児についても、子育て支援策の拡充は公助ですが、子育てしている家族を地域で支えていくのは共助と言えますね。「自助、共助、公助」にはそれぞれ役割分担があり、またそれぞれに限界もあるということでしょう。

 

その意味では国が「自助、共助、公助」を社会のあり方として掲げるのは当たり前のことと言えるね。特に自助を強要しているわけではないし。

 

ただし、国民にどう届くかというコミュニケーションの視点で考えれば、他の表現もあったと思います。たとえば「国民の皆さんの自助や共助が報われる社会のために、公助でしっかり支えていく」というような。あくまで主語は公なのですから。これは政治的な視点ではなく、あくまでコミュニケーションの視点での意見ですが。

 

表現と言えば、菅総理が会見で掲げたパネルの書き方も関係していると思うんだよね。たしか会見で示したパネルには「自助、共助、公助、そして絆 規制改革」って並べて書いてあったんだけど、もっとていねいというか国民に寄り添った表現の仕方があったと思うね。

施政方針の表明は、国民に対する想いの表明でもあるんだから。「令和」と新元号を書いた色紙を「どうだ!」と発表するのとはちょっと違うんじゃないの、と感じたね。

 

 筆者については・・・

 

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