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コミュニケーションについて、広告クリエイティブディレクターの話

大阪都構想に対する立憲民主党のチラシを、コミュニケーションの視点で考える。

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「伝えたい相手のこと、想ってる?」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下)コーヒーください。

 なんか、立憲民主党が作った大阪都構想についてのチラシが炎上しているけど、知ってた?

 

そうなんですか?知りませんでした。どれどれ今見てみます・・・ああ、これですね。

デザインは、左上に立憲民主党のロゴがあって、メインビジュアルはちょっと太めの女性が床にくつろいでテレビを見ていますね。手にはおせんべいでしょうか。足元に猫が一匹うずくまっていますね。

キャッチコピーは大阪市にいらんことせんとってや、ほんま。」これは、この女性の言葉なんでしょうね。そして、右下に大阪市廃止にNO!」とタグラインが入っていますね。

なるほど。たとえば東京都民がパッと見では、なんで炎上するのかピンとこないんじゃないですか?

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デザインについてはあたしは素人だけど、大阪都構想のようなとんがったテーマについての表現としては、ずいぶんゆるいなというのが第一印象だけどね。「大阪市廃止にNO!」とか強い意志を表明しているわりに、のんびりしているというか。

 

そうですか。まあ、強い意志を伝えるのに強い表現が良いとは限りませんが。大阪都構想の是非とか立憲民主党がどうとかではなく、あくまで、このチラシのクリエイティブについてという視点で話していきましょうか。

制作された方を存じあげないので大変失礼とは思いますが、表現として結実したそれぞれの要素から、クリエイティブの意図を逆算してみましょうか。一定のコンセプトに貫かれているという前提で。また、ネットに上がったものしか見ていませんので細かいトーンは分かりませんが。

ロゴとタグラインは置いといて、まず、寝転がっている女性などのビジュアルですが、手描きのタッチが分かるシンプルなイラストで、おそらくマーカーによる着色でしょうか。髪は茶髪のショートヘアのように見えますね。紫色のニットで、ヒョウ柄のパンツといういでたちです。カウチソファに寝転んで、おせんべいでしょうか、食べながらテレビを見てくつろいでいます。

まあ、全体の印象は「主婦の、のんびりとしたある日の午後」でしょう。テレビにはサイが2匹映っていますが、アニメでしょうか。

 

そのヒョウ柄のパンツ」が炎上したんだね。で、だらしなく寝転んでいるというところも。ネットニュースで紹介されているTwitterなどを見ると、ほとんどが「関西人を馬鹿にしている」という趣旨だね。

他にも「選挙に行かずに寝とけということか」とか「立憲民主党の大阪人に対するイメージがこれか」「女性を揶揄する表現は不愉快」といったところかな。

 

なるほど、そういう反応を引き出したのならそういう表現だったと、ここはクールに言うしかないですね。コミュニケーションとは、そういうものです。そういう意図ではなかったと後でいくら言い訳しても手遅れです。

でも、批判じゃなくて好意的に受け取っている人もいるんじゃないですか?その人たちの好感も知りたいですね。

 

一部のネットニュースでは、制作の意図について、関係者の話として「かわいいデザインということと、庶民的な発想という形で提案して、アーティストの方に作ってもらったもので、セリフも素朴な疑問を出し合って、出てきたものを書いている。大阪のイメージどうこうとは書いていないんですけどね。市民の代表なんて書いてもいないし」と紹介しているけどね。

一生懸命考えて作ったんだと思うよ。

 

それは、これほどの大きなテーマについてですから、しっかり考えて作ったはずです。整理すると、目的は「大阪都構想反対の意識・行動喚起」、コンセプトは「庶民的な発想で」、トーン&マナーは「かわいい」と。したがって、庶民の実感の言葉がコピーとなっているわけですね。

まあ、このとおりに提案されたわけではないでしょうけれど。目的を達成するためのクリエイティブコンセプトは他にも考えられるでしょうが、とりあえずこのまま「庶民的な発想」で行こうと決めたとします。

しかし「庶民的な発想」として伝えるためには、さまざまな選択肢があるはずです。たとえば「なぜ反対しなければいけないのか」といった理由を、「庶民的な発想」で考えさせるという方向です。

一方、「庶民的な発想」をヒョウ柄」と「おばちゃんのつぶやき、ぼやき」という表現で結実したら、今回のような結果になったわけですね。「庶民的」イコール「素朴」「深く考えていない」「適当」「本音」とかの短絡ですね。言ってみれば、制作者側の「庶民とはそういうものである」との想いが前景化しまったわけですね。

 

なるほど。まずは大阪の人たちが「ヒョウ柄着て寝っ転がってせんべい食べながら大阪都構想を考えているのが大阪人のレベルか!」と怒っているわけだけど、普遍化すると「庶民とはこういう存在である」という感覚で作ってしまったということかな。

 

まあ、きびしく言うとそうなるでしょうね。ヒョウ柄の良し悪しについては、僕はよく分かりませんが、これが制作者側が言うように「かわいいデザイン」だったとしても、このポスターの場合、そういう「かわいい」トーン&マナーが、大きな政策を問うようなシビアなテーマにふさわしいのかということも、しっかり検証した方が良かったでしょうね。

 

あたしは、このデザインは「かわいい」と思うけどね。でも、たしかに「かわいい」デザインが正解だったのかどうか。

 

さらに、コミュニケーションターゲットについて考えると、このポスターのターゲットは、プライマリーには大阪の人たちだけでしょう。結果的にSNSなどで全国に拡散されてしまいましたが、元々はポスターやチラシといった地域限定のメディアだったはずです。

そういった、かなりターゲットをセグメントした表現にすることは当たり前なのですが、戦略的には、さらに賛成派層に向けたものか、反対派層に向けたものか、まだ迷っている層に向けたものかで、表現のコンセプトは大きく変わります。

 

これは想像だけど、公式ページでは「わからないなら反対を」という記事にリンクしているらしいので、おそらく主に、まだ迷っている層に向けたものなんじゃない?

 

「わからないなら反対を」とはまた乱暴ですね。もっとも、広告では「迷ったら、まず食べてみて」とかトライアルを促すことはありますが。

 

でも、次はもう買わないと言える食品とかと違って、これは統治制度の選択で決まったら次は無いので、そうは言えないよ。まあ、常識としては「わかった上で反対を」だろう。引っ越さない限りついて回るテーマだからね。

 

メインターゲットが、まだ迷っている層だと仮定すると、迷っている理由にはグラデーションがあるでしょう。

しっかり調べてロジカルにつきつめて、それでもどちらが良いか迷っている人もいる一方、なんとなく気分的に揺れているという人もいると思います。決めかかっているけれど最後は身近な誰かに聞いて決めようと考えている人もいるかもしれません。そんな人たちに「決めてもらう」コミュニケーションでなければ打つ意味がないわけです。

 

で、問題のポスターを見てみると、これがそれらの迷っている人の気持ちに応えているのかどうかということだね。コピーは制作者側の弁だと「素朴な疑問」らしいけど、その内容は「大阪市にいらんことせんとってや、ほんま。」と、感覚的というか感情的だね。

もしかしたら東京人だからそう思うのかもしれないけど。「庶民的」とか「素朴」とは感覚的になることなのかね。庶民は理性的ではないと。

 

自分と家族や地域の未来を真剣に考える、それが庶民感覚であると僕は思いますが、こういう態度のメッセージが、果たして大阪都構想について真剣に迷っている庶民の心をつかんで、決めさせるメッセージになるのかということですね。

「なんとなく大阪都構想に風が吹いている世の中の気分」があって、それで迷っている人の心をつかみたいのであれば、「風になびかず、現実的に自分で判断できるのが大阪人、だから答えはNO」とか、大阪をリスペクトするアプローチもあったはずです。

 

そんな手ぬるいというか、悠長なことを言ってる余裕が無いんじゃない。それで焦って、もう思考停止を勧めているとしか思えないんだけどね、あのチラシ見てると。まさに「わからないなら、反対を」というか「わからないけど反対だ」と言っているようなものだもん。

 

コミュニケーションとは「何を伝えたいか」が大事ですが、「どう伝わるか」への想像力がさらに重要ということの例ですね。

今回は、ヒョウ柄という表現に炎上したように見えますが、その奥にあるメッセージを発信する側の想いに、直観的に反応したんだと思います。「バカにしたつもりはなかったと言われても、バカにされたのは事実」ということです。

 

しかも、政党という公的な存在が発信するメッセージとしては、思慮が浅かったということかな、結果的にだけど。だけど、ヒョウ柄というだけで、これだけ鋭く批判されるというのも怖いね。何かあれば批判したがる世の中だとしても。

 

ですから、コミュニケーションとはそういうものです。今日は、大阪都構想の是非や立憲民主党の政策とかではなく、このポスターの表現を素材に、コミュニケーションとは何だろうと考えましたけれど、また何か話題になった表現があったら語っていきましょう。

 

筆者については・・・

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自助、共助、公助って何だろう?国から自助を説かれる違和感には、コミュニケーションの問題も。

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 「公から自助とは言われたくない」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下カプチーノください。

あなたは町会の防災部長やってるよね。このあいだ菅さんが「自助、共助、公助」って言ってたけど、自助、共助、公助って、防災の用語じゃなかったんだっけ?なんでそれが国のスローガンなのか、ちょっと違和感があったんだけどね。

 

菅総理がスローガンに掲げた自助、共助、公助ですね。

 

自助、共助、公助って、たとえば地震の時には、各自で備えて、地域で助け合って、消防隊とか自衛隊とかが出動する、というイメージで思っていたんだけどね。

 

そうですね。これは僕の認識ですが、もともと自助、共助、公助って、たしか阪神淡路大震災の時に言われ始めたんじゃないですか?

自助は、自分や家族の命を守るために自分でできる防災の取り組みですね。たとえば家を耐震化するとか、家具が倒れないようにするとか、被災に備えて食料や資材を備蓄するとか、避難方法を考えておくとか。

ひとつとんで、公助は分かりやすくて、国や自治体による対策、消防、警察、自衛隊などの出動ですね。

そして共助ですが、自助と公助の間にあって、主に地域の共同体などでの助け合いをいいます。共助は自分の身の回りの安全が確保されていることが前提です。

 

自助は自分の身はまず自分で守れと、まあ当たり前だよね。そして公助もあって当たり前だよね。大きな災害の時は、自衛隊が来ないとどうしようもないもんね。でも共助はふだんから、みんなにそういう意識がないと難しいね。ある意味、当たり前ではないというか。

 

そうですね。阪神淡路大震災の時に公助の限界が分かったんですね。実際に消防だけでは手が回らなかったわけです。また、ご近所どうしで協力して救助できた例もたくさんありました。そこで、それぞれが備える自助と、地域で助け合う共助の重要さがクローズアップされたんだと思います。

 

今、ここ文京区のホームページを見てみたけれど、こう書いてあるね。

「区民への情報連絡、避難所における役割分担、区職員の初動体制、災害時要援護者への支援態勢、帰宅困難者への対応等、東日本大震災を通して明らかになった課題もあります。さらに、大規模地震等に伴う被害により行政機関の活動に支障が生じるなど『公助』にも限界があり、『自助』、『共助』を含めた総合的な対策の重要性が改めて認識された」

つまり、公助では限界があることを、自治体が認めているわけだね。

 

自助、共助、公助がそれぞれの持ち場で機能することが、災害対策には必要ということですね。つまり、大規模な災害に対しては、公助だけを頼っていてはいられないということでしょう。

 

それぞれの持ち場があるということで、どちらが優先ということではないということかな。一人では避難できない状況の人がいた場合、そういったすべての人を、消防や区の職員が助けることは難しいもんね。

 

そういう時こそ、地域の共助の出番ですね。大規模災害時には、公助だけでは限界がある。ゆえに、自助と共助を加えた総合的な取り組みが必要である、ということです。

 

でも、菅さんが言ったのは、防災のことではないんでしょ?

 

そこが混乱している原因かもしれません。社会保障の分野でも、自助、共助、公助が言われます。

まず、国民は自ら働いて自分や家族の生活を支え、自分たちの健康を守る、これが自助。そして、その生活のリスクを相互に分散して、共助で支える。

そのうえで、自助と共助では対応できない困窮に対して、生活保護などの制度によって生活を保障していく公助です。

ざっくり言うと、これが日本の社会保障の基本的な理念となっています。もっとも、この理念があるために、本当に公助が必要なところに支援の手が差し伸べられていないと言う現場の声もありますが。

 

社会保障では、まず自助」が基本。それを共助で支え、支えきれないところは公助の出番という、順序がある考え方だね。

 

そうですね。菅総理のスローガンというか自民党の綱領は、こちらの考え方に近いのでしょう。自民党の綱領では、自助について自助自立する個人を尊重し」と書かれていたと思います。この通り読めば、自助の中に個人の尊重という概念も含まれているように感じます。これをもって新自由主義だと言う人もいますが。

 

なるほど。「自助、共助、公助」という菅さんのスローガンは、目新しいことじゃなくて、自民党の綱領に沿って言っただけとも考えられるんだね。

 

そう思いますね。安倍総理は「アベノミクス」とか「三本の矢」とかオリジナルワードを繰り出しましたが、菅さんの場合は今のところ、実直というか党綱領に忠実なワードなわけです。

 

でも批判があったわけでしょ。特に自助というところに。

 

「自助、共助、公助」という理念が間違っているということではなくて、タイミングもさることながら、言い方にも問題があるんだと思います。

今、国民の多くが「とっくに自助はやっている」「自粛のおかげで地域経済は破綻している」と思っていて、さらに「国の支援が届いていない」「国の対策つまり公助が不十分だ」と感じているわけです。その国民感情に対して、いくら正論だとしても、自助を説いてしまったわけですね。

 

「あんたには言われたくないよ」「公助も満足にできてないくせに」という感じかね。傷口に塩をすりこまれたというか。勉強机に向かった子に「ちゃんと勉強しなさい」と言うような。

 

たしかに庶民感情とは、そういうものですね。

 

「自助、共助、公助」という言葉の順番のせいもあるんじゃない?見た目で公助が最後になっているという。

 

そうですね。たとえば「公助としての国の支援をしっかり尽くしていきます。そして国民の皆さんが共助の想いで支え合い助け合い、またお一人お一人がご自身と家族の暮らしを守る自助の精神で、共に進んで行きましょう」と言えば、だいぶ印象は違いますよね。僕がスピーチライターであれば、そう書きますが。

 

伝え方もへたなんだね。まあ、もしかしたら本当に「まずは自助だろ、公助は後回し」と考えているのかもしれないけど。さらに「共助はついでに言ってみた」であれば困ったことだね。

 

そうではないと信じたいですね。ともかく、メッセージは深く考えて発信しないといけないという、いい例ですね。コミュニケーションとは「何を伝えたいか」より「どう伝わるか」への想像力が重要です。

アベノマスクの時もそうでしたが、「布マスクを1世帯に2枚だけ配る」というソリューションは、「緊急時における国民の安全安心を、国はこういうレベルで考えています」というメッセージを発信したのと同じ効果があります。むしろ、配付が遅れたとか不良品があったとかのミスが無かった方が、そのメッセージがソリッドに刺さったかもしれません。

 

そういう意味では、家で愛犬とくつろいでいる映像もそうだね。リーダーが率先してステイホームしている姿を身をもって示したはずが、「国民の置かれた状況を、国のリーダーはこういう態度で考えています」というメッセージを、身をもって示しちゃったもんね。全てにわたって伝え方がへたというか、逆効果だったね。

 

残念ながら、コミュニケーションとは何かについてのリテラシーが乏しかったですね。コミュニケーションの持つ力について、もっと真剣に考えた方がよいかと思います。

 

でも、あまり上達してプロパガンダの達人になられてもねぇ。このあたりのいわば素朴なレベルのままでいいという気もするんだけど。国民につっこまれるというのも、一種のコミュニケーションだと思うよ。

 

筆者については・・・

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歩きスマホが無くならないなら専用レーンを。課題の本質を解決しないソリューションはいかがですか?

 

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「もう、解決している余裕が無い」

マスター(以下):いらっしゃい。

 わたし(以下):紅茶ください。ルフナで。

 自転車の配達員が増えたね。みんな頑張っていて偉いよね。でも、スマホ片手に見ながらの人もたまにいて、危ないなって思う時もあるね。

 

配達中にもスマホを使いますからね。詳しくないのですが、配達中に次の配達リクエストが入ることもあるから、常に見ているんじゃないですか?

 

きのう白山上で、歩きスマホの人にスマホ運転の自転車がぶつかったのを見たけど。無くならないね、歩きスマホも。

 

そういえば、中国のショッピングモールだったかな、歩きスマホ専用レーンの導入が検討されたっていう話を、以前聞いたことがあります。

 

もう無くならないんだったら、いっそ専用レーンを作ってしまえ、という発想だね。本当だとしたら、すごい現実主義だね。

 

たしか、アメリカのユタバレー大の階段には、「歩行用」「急ぎ用」「歩きスマホ用」の3レーンがあるとかも聞いたことがあります。

あと、ドイツでしたか、歩きスマホしている人でも分かるように、信号を路面に埋め込んだという話も聞きました。今はどうなっているんでしょう?

 

歩きスマホ根絶は諦めて歩きスマホと共存する、をさらに進めて、歩きスマホに便利な世の中にしようということね。

 

歩きスマホ専用レーンは、典型的な現状追認型のソリューションですね。課題の本質は解決しないでいい、というかもうその余裕がない。緊急事態宣言的なソリューションでしょうか。

 

でも、それでは問題の解決が遠のくばかりというか、問題が固定化した社会になってしまうのではないかと思うけれどね。矢で撃たれて倒れた人を前に「この矢は誰がどこから撃ったのか?」と考えるより、「まずは矢を抜かなきゃ」という感じかな。

 

その例えは、ちょっと違うと思いますが。

 

このリンゴは「甘い」か「酸っぱい」かを学者が議論していたところに子どもがやって来て、一口かじって「うまい」と言ったというようなことだよね?

 

しつこいですね、マスターも。それも違う気がします。

 

話はそれるけど、エスカレーターの右側を急ぐ人のためにあける、という習慣もあるよね。関西では左側をあけるらしいけど。なんでエスカレーターには、歩き専用レーンがないんだろうね。スマホ専用レーンより、よっぽどありそうなのに。

 

話がだいぶそれましたね。どこかで読んだのですが、全員が歩かずに大人しく乗った方が、全体としては効率がいいらしいですね。

でも、たぶん1台のエスカレーターについて、全員が歩かない方が時間当たり多くの人数を運べるということであって、もうとにかく急いでいて、「モレちゃうよぅ、トイレに一刻も早く!」という個人への答えにはなっていない気がします。全体への奉仕に関心がない人には効かない話かもしれませんね。

 

でも、エスカレーターに乗っている人全員が「モレちゃうよぅ」という状況ではないでしょ。まあ、「今入ってくる電車に乗らないと」くらいの人は多いだろうけど。

 

歩きエスカレーターは、効率で説得するより「危険だから禁止」と言い切った方が効くような気がしますね。

 

誰かが横について支えていないと危ない人もいるので歩くのは禁止、と。でも、歩きスマホだって、「危険」という理由では結局無くならないわけじゃない。だから専用レーンという発想が生まれたんでしょ?歩きエスカレーターも、危険というだけでは無くならないと思うけど。

といって、ハード面で解決するのも難しいよね。ホームに低速用と高速用を作るスペースはないだろうし。歩きエスカレーターを無くす究極のソリューションって何なんだろうね?

 

車の場合は、アクセルとブレーキを踏み間違える人は無くならないということを前提に、間違って踏んでしまった場合にも対応するハードでの解決が考えられたんですね。でも、踏み間違いも含めた全ての操作ミスに対応できるシステムではないし。ハードが進んでも、結局今のところ運転するのは人間なので。

 

歩きスマホ専用レーンみたいに、高齢ドライバー専用レーンを作るわけにもいかないし。まあ、そのうち、全自動運転の乗用ドローンとかができれば解決するのかもしれないけど。

今のところ、歩きスマホも、歩きエスカレーターも、高齢ドライバーの事故にも、究極のソリューションはないってことなのか。

 

人間社会である限り、多様な人々がいるわけですから、そんなズバっと解決みたいな究極のソリューションが発明されるわけはないですよ。オール・オア・ナッシングではなく、あの手この手を繰り出して、漸進的でいいので諦めずに解決への歩みを止めないことでしか、ゴールにたどり着けないのではないでしょうか。

 

コロナにも、究極のソリューションはないだろうね。それこそ一人一人で向き合う気持ちも違うしね。恐怖と言う人もいるし、平気と言う人もいるし。家族の中でもさまざまかもしれないし。家族構成によって、仕事によって、地域によって、国によってなどなど、それぞれに抱える課題があり、それぞれ違って当たり前だからね。

 

何より、歩きスマホとは課題のレベルがぜんぜん違いますから。かたや人が作り出した社会現象が課題で、かたやウィルスが相手で全人類レベルの課題ですから。ズバリ究極のソリューションと言えるものを提示できる人がなかなかいないので、モヤっとしたりイラっとしますが、しょうがないでしょう。

逆に言えば、コロナに対してズバッとソリューションを提示できる人が現れたら要注意なような気さえしますね。

 

コロナを機会にズバッとチェンジ、みたいな。そういうのをショックドクトリンって言うんだっけ?

 

筆者については・・・

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CMで描かれた世界と、リアルな生活感とのギャップ。感じたことってありますよね?

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「♪あら、こんなところに牛肉が~」

マスター(以下いらっしゃい。

わたし(以下)紅茶ください。ヌワラエリアで。

『炎上CMでよみとくジェンダー論』という本を読んだんだけど、「なるほど、そうなんだ!」という内容だったね。あなたも読んだ方がいいよ。

 

とっくに読みましたよ。

 

ところで、あなたの仕事では、炎上したことってある?

 

幸いにも無いですけど。

 

炎上しようにも、話題作なんか作ってないもんね。

 

先輩のクリエイティブディレクターの作品で、炎上こそしていませんが、全国紙で批評されたものはそばで見ています。かなり過去の話になりますが、ある食品メーカーの牛肉を使うインスタント食品のCMで、主婦役の女性タレントが冷蔵庫を覗いて「♪あらこんなところに牛肉が~」と歌い出すというストーリーです。

そのCMに反応したのが、高名な広告評論家でした。「冷蔵庫の中に買い置いた牛肉を、主婦が忘れるはずがない」「庶民の生活感覚とズレた表現だ」と、全国紙の人気コラムで酷評されたんですね。

 

なるほど。そう言われれば、そうかもね。

 

でも、メロディーに乗せて歌っているという時点で、「これはCMとして作ったお話ですよ」というストーリーにしてあるんですけれどね。

もし仮にこの「あら、こんなところに牛肉が・・・」というのが、主婦のリアルなつぶやきとして描かれていたのなら、そう言われても、まあしょうがないかなとは思いますが。そういうリアリティを排除するために、あえて歌にして虚構にしているわけで。

 

お茶の間では、そこまで考えて見てはいないでしょ。そのCMはよく見た記憶があるけど。たしかスーパーの肉売り場で「あらこんなところに」と歌うパターンもあったような。

 

「これなら問題あるか」ということですね。2作目をあらかじめ用意していたのかどうかは忘れましたけれど。

その先輩CDは、この新聞コラムにいたく反応して、帰宅したら、なぜか玄関に牛肉が置いてあるので「♪あら、こんなところに牛肉が~」と歌うバージョンや、牧場にいる牛を見て「♪あら、こんなところに牛肉が~」と歌いだすバージョンのコンテも作っていましたね。

 

くやしい気持ちは分かるけど、それは作らなかったんでしょ?

 

と思いますけどね。まあ、批評は批評であって、喧嘩を売られたわけではないのですが、さすがにいきなり全国紙のコラムで全否定されるとね。気分が収まらなかったんでしょう。

例えば、もっと若者向けの商品だったら、あえて喧嘩を買って話題化というか炎上させる戦法もあるでしょうけどね。この場合はそれをやっても、家庭用食品ですので消費者の共感は得られないと思います。

 

どんな商品でも、相手が全国紙にコラムを持っている有名評論家では、分が悪いような気がするね。

 

広告は商品やサービスを買ってもらうことは大事な目的ですが、企業やブランドとして消費者を味方につけることが大事な役目なので、喧嘩してもメリットはないですからね。

 

喧嘩しないまでも、何か対応はしなかったの?

 

どうなんでしょう。その後もそのままオンエアされていたと思います。ただし、消費者から直接クレームが寄せられたとか、大々的にメディアで問題になってしまったとか、JAROに提訴されたというのであれば、その場合は誠実に対応しないといけません。

 

そういう経験はあるの?

 

僕が関わったものでは、これもだいぶ昔の話ですが、エアコンのCMで、志村けんさんがCGの赤ちゃんといっしょに踊るというものがありました。それを見た方から「赤ちゃんを無理やり躍らせるとは幼児虐待ではないか」という指摘がいくつか来ました。CGの赤ちゃんなんですけど、リアルな感じだったからなんでしょう。

 

ああ、そのCMは覚えてるよ。「♪ツインツイン~」っていうやつだろ。

 

広告は売ることが目的ですが、それは、企業やブランドの価値観というか人格も込みで買ってもらう、評価してもらうということでもあると思いますので、そういう意味で誠実な対応が大事です。それは、客さまは神様ですということとは違いますが。

 

でも、犯罪を起こして被害者を出したような企業のホームページが、すごく誠実な感じに作られていたりして、企業が発信したコミュニケーションの表面からは、本質が見抜けないこともあるよね。愛想がいいけど、裏の顔は悪人という。逆に悪代官ヅラして実はいい人もいるしね。

 

「見た目悪役、実はいい人」というギャップをわざと演出して、戦略的にブランディングしている場合もありますよ。とっつきにくいけど、付き合えば付き合うほど味わい深くなるような。マスターは、悪役に見えて実は優しいけれど、それは演出ですか、自然体ですか?

 

自然体に決まっているでしょう。この店のことも「最初は恐い感じのマスターでしたが、優しい笑顔にほっこりしました」といった投稿がたまにあるしね。よし、当分この路線で行こう。

 

やっぱり演出なんじゃないですか。

 

筆者については・・・

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言葉やコミュニケーションを話題に、広告のクリエイティブデイレクターが、ゆるくおしゃべりしていきます。

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筆者は広告代理店のクリエイティブ局長などを経て、クリエイティブデイレクターとして、さまざまなクライアントの広告・広報コミュニケーションを担当しています。

コミュニケーションの力とは、わかりやすく伝えるとか、声の大きさではなく、「なかなか分かり合えない相手と分かり合おうとする」力であると考えます。

コロナ禍の社会にあって、コミュニケーションのあり方も少しずつ変わっていくでしょう。その視点に立って、広告制作の現場から考えるクリエイティブの作法についても語っていきたいと思います。

また、ながらくJAグループの仕事に携わっている経験から、共同体のあり方についても触れていきます。

とりとめもない話ですので、時に脱線し、ひとりよがりな角度になるかもしれません。広告に関心が無い方には、分かりにくいところもあるかもしれません。また、クリエイターの方には、さまざまに異論反論あるとは思います。

そこは大目に見ていただき、まあ、ゆるくお茶でもしながら、おつきあいいただければと思います。

 

筆者については・・・

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