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コミュニケーションについて、広告クリエイティブディレクターの話

自助、共助、公助って何だろう?国から自助を説かれる違和感には、コミュニケーションの問題も。

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 「公から自助とは言われたくない」

マスター(以下)いらっしゃい。

わたし(以下カプチーノください。

あなたは町会の防災部長やってるよね。このあいだ菅さんが「自助、共助、公助」って言ってたけど、自助、共助、公助って、防災の用語じゃなかったんだっけ?なんでそれが国のスローガンなのか、ちょっと違和感があったんだけどね。

 

菅総理がスローガンに掲げた自助、共助、公助ですね。

 

自助、共助、公助って、たとえば地震の時には、各自で備えて、地域で助け合って、消防隊とか自衛隊とかが出動する、というイメージで思っていたんだけどね。

 

そうですね。これは僕の認識ですが、もともと自助、共助、公助って、たしか阪神淡路大震災の時に言われ始めたんじゃないですか?

自助は、自分や家族の命を守るために自分でできる防災の取り組みですね。たとえば家を耐震化するとか、家具が倒れないようにするとか、被災に備えて食料や資材を備蓄するとか、避難方法を考えておくとか。

ひとつとんで、公助は分かりやすくて、国や自治体による対策、消防、警察、自衛隊などの出動ですね。

そして共助ですが、自助と公助の間にあって、主に地域の共同体などでの助け合いをいいます。共助は自分の身の回りの安全が確保されていることが前提です。

 

自助は自分の身はまず自分で守れと、まあ当たり前だよね。そして公助もあって当たり前だよね。大きな災害の時は、自衛隊が来ないとどうしようもないもんね。でも共助はふだんから、みんなにそういう意識がないと難しいね。ある意味、当たり前ではないというか。

 

そうですね。阪神淡路大震災の時に公助の限界が分かったんですね。実際に消防だけでは手が回らなかったわけです。また、ご近所どうしで協力して救助できた例もたくさんありました。そこで、それぞれが備える自助と、地域で助け合う共助の重要さがクローズアップされたんだと思います。

 

今、ここ文京区のホームページを見てみたけれど、こう書いてあるね。

「区民への情報連絡、避難所における役割分担、区職員の初動体制、災害時要援護者への支援態勢、帰宅困難者への対応等、東日本大震災を通して明らかになった課題もあります。さらに、大規模地震等に伴う被害により行政機関の活動に支障が生じるなど『公助』にも限界があり、『自助』、『共助』を含めた総合的な対策の重要性が改めて認識された」

つまり、公助では限界があることを、自治体が認めているわけだね。

 

自助、共助、公助がそれぞれの持ち場で機能することが、災害対策には必要ということですね。つまり、大規模な災害に対しては、公助だけを頼っていてはいられないということでしょう。

 

それぞれの持ち場があるということで、どちらが優先ということではないということかな。一人では避難できない状況の人がいた場合、そういったすべての人を、消防や区の職員が助けることは難しいもんね。

 

そういう時こそ、地域の共助の出番ですね。大規模災害時には、公助だけでは限界がある。ゆえに、自助と共助を加えた総合的な取り組みが必要である、ということです。

 

でも、菅さんが言ったのは、防災のことではないんでしょ?

 

そこが混乱している原因かもしれません。社会保障の分野でも、自助、共助、公助が言われます。

まず、国民は自ら働いて自分や家族の生活を支え、自分たちの健康を守る、これが自助。そして、その生活のリスクを相互に分散して、共助で支える。

そのうえで、自助と共助では対応できない困窮に対して、生活保護などの制度によって生活を保障していく公助です。

ざっくり言うと、これが日本の社会保障の基本的な理念となっています。もっとも、この理念があるために、本当に公助が必要なところに支援の手が差し伸べられていないと言う現場の声もありますが。

 

社会保障では、まず自助」が基本。それを共助で支え、支えきれないところは公助の出番という、順序がある考え方だね。

 

そうですね。菅総理のスローガンというか自民党の綱領は、こちらの考え方に近いのでしょう。自民党の綱領では、自助について自助自立する個人を尊重し」と書かれていたと思います。この通り読めば、自助の中に個人の尊重という概念も含まれているように感じます。これをもって新自由主義だと言う人もいますが。

 

なるほど。「自助、共助、公助」という菅さんのスローガンは、目新しいことじゃなくて、自民党の綱領に沿って言っただけとも考えられるんだね。

 

そう思いますね。安倍総理は「アベノミクス」とか「三本の矢」とかオリジナルワードを繰り出しましたが、菅さんの場合は今のところ、実直というか党綱領に忠実なワードなわけです。

 

でも批判があったわけでしょ。特に自助というところに。

 

「自助、共助、公助」という理念が間違っているということではなくて、タイミングもさることながら、言い方にも問題があるんだと思います。

今、国民の多くが「とっくに自助はやっている」「自粛のおかげで地域経済は破綻している」と思っていて、さらに「国の支援が届いていない」「国の対策つまり公助が不十分だ」と感じているわけです。その国民感情に対して、いくら正論だとしても、自助を説いてしまったわけですね。

 

「あんたには言われたくないよ」「公助も満足にできてないくせに」という感じかね。傷口に塩をすりこまれたというか。勉強机に向かった子に「ちゃんと勉強しなさい」と言うような。

 

たしかに庶民感情とは、そういうものですね。

 

「自助、共助、公助」という言葉の順番のせいもあるんじゃない?見た目で公助が最後になっているという。

 

そうですね。たとえば「公助としての国の支援をしっかり尽くしていきます。そして国民の皆さんが共助の想いで支え合い助け合い、またお一人お一人がご自身と家族の暮らしを守る自助の精神で、共に進んで行きましょう」と言えば、だいぶ印象は違いますよね。僕がスピーチライターであれば、そう書きますが。

 

伝え方もへたなんだね。まあ、もしかしたら本当に「まずは自助だろ、公助は後回し」と考えているのかもしれないけど。さらに「共助はついでに言ってみた」であれば困ったことだね。

 

そうではないと信じたいですね。ともかく、メッセージは深く考えて発信しないといけないという、いい例ですね。コミュニケーションとは「何を伝えたいか」より「どう伝わるか」への想像力が重要です。

アベノマスクの時もそうでしたが、「布マスクを1世帯に2枚だけ配る」というソリューションは、「緊急時における国民の安全安心を、国はこういうレベルで考えています」というメッセージを発信したのと同じ効果があります。むしろ、配付が遅れたとか不良品があったとかのミスが無かった方が、そのメッセージがソリッドに刺さったかもしれません。

 

そういう意味では、家で愛犬とくつろいでいる映像もそうだね。リーダーが率先してステイホームしている姿を身をもって示したはずが、「国民の置かれた状況を、国のリーダーはこういう態度で考えています」というメッセージを、身をもって示しちゃったもんね。全てにわたって伝え方がへたというか、逆効果だったね。

 

残念ながら、コミュニケーションとは何かについてのリテラシーが乏しかったですね。コミュニケーションの持つ力について、もっと真剣に考えた方がよいかと思います。

 

でも、あまり上達してプロパガンダの達人になられてもねぇ。このあたりのいわば素朴なレベルのままでいいという気もするんだけど。国民につっこまれるというのも、一種のコミュニケーションだと思うよ。

 

筆者については・・・

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