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コミュニケーションについて、広告クリエイティブディレクターの話

「国消国産」という考え方

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あのマスク不足は国内で作っていなかったから

国民の中にコロナの不安が一気に爆発した、あの時。皆が一斉にマスクを買いに走り、町中の店頭からマスクが消えたことは、まだ記憶にあると思います。

なぜマスクが一斉に消え、しばらく店頭に並ぶことがなかったのか?それは、それまで日本では、マスクのほとんどを輸入しており、国内で製造していなかったからです。万一の時、国民に必要な需要のほとんどを輸入に頼っていたことのリスクが露呈したわけです。

もしこれが食料だったらどうでしょうか?マスクのような工業製品は、国内の工場で速やかに生産システムが構築できれば、間もなく生産できるようになるでしょう。しかし、食料は農業によって作り出されます。

もし万一、なんらかの事情で、食料の輸入がとだえてしまったら、ただちに生産を開始しても、収穫までには長い時間を要します。果物や畜産物の場合は、さらに何年もかかるでしょう。その間、いったい国民は何を食べればよいのでしょう?

コロナのワクチンも、現時点では国内企業では開発できておらず(今後アストラゼネカは日本国内で生産するとの報道もありますが)、輸入に頼っています。ワクチンを巡っては、各国間で激しい争奪戦がくりひろげられたことは周知のことです。

日本は当面の必要量を確保できましたが、さらに今後、新たなタイプのウイルスの出現や、全く違う感染症が流行した場合、輸入に頼り続けられるとは限らないかもしれません。

食料の確保も国の安全保障

今、日本の食料自給率はカロリーベースで約38%です。つまり食料の約6割を外国からの輸入に頼っているわけです。これは先進国の中でも最低のレベルです。

日本は平野が少ないため耕地面積も少ないので仕方ないと考える方もいるでしょうが、その少ない耕地面積も、年々どんどん減っています。農水省によると、この60年で167万ヘクタール、日本の国土の25分の1に相当する農地が減っているとのことです。

視点を世界に移すと、このところアメリカ、中国をはじめ、世界中で自然災害が多く発生しています。自然災害は農業を直撃しますので、大規模な自然災害によってその国の農業が打撃を受けた場合、それまで食料を輸出していた国が、自国民の食料を確保するために輸出制限することが予想されます。

現に、コロナ禍の中でいくつかの国が食料の輸出を制限しました。もし、その輸出先が日本だったなら、食料の多くを輸入に頼っている日本が、食料不足に見舞われる可能性は否定できません。

このように万一の事態を想定し、国内の安全を守る備えを国家安全保障といいます。安全保障と聞くと、まずは日米安保が想起され、ちょっと政治的な怖い印象がありますが、まさに防衛も国にとって重要な安全保障の一つであり、他にも、経済の安全保障、資源やエネルギーの安全保障、環境の安全保障、思想や文化の安全保障などの概念があります。

そして、自国民の食料を確保していくことを食料安全保障というわけです。食料を安定的に供給することは、何も輸入を否定することではありません。万一の時にも途絶えない輸入ルートを確保していくことも安全保障でしょう。

と同時に、より根本的な解決策は、なるべく国内生産を拡大していくことでしょう。そんなことを考えていましたが、先日、JAグループさんからお話をいただき、食料安全保障について考えていくプロジェクトのお手伝いを始めました。

ベースにある想いは、このまま国産の農畜産物の消費が進まず、つまり食糧自給率が低迷し続ける中で、万一、輸入相手国の災害や紛争などの事情によって輸入が滞ってしまったら、国民の食料不足が起きかねないという食料安全保障上の問題提起です。

それを消費者目線で考えれば、解決の一歩は普段からなるべく国産の物を食べて消費を拡大し、それによって国内農業を応援して、食料自給率が向上していくという循環を産み出そうというものです。

というようなことを「国消国産」というテーマで林修先生にわかりやすく語っていただきました。「国消国産」で検索すればYouTubeでご覧いただけますので、興味ある方は、ぜひどうぞ。

 

筆者については・・・

 

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問いかける人、大坂なおみ

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問う、というコミュニケーション

主張でも対話でもなく、問いかける。

大坂なおみ選手の記者会見拒否についての動向が話題となりました。大会運営サイドは、当初は彼女の行動をいわば「ルール違反」として制裁という姿勢に出ました。その後、大坂選手のうつ告白によって態度を反転させ、彼女を全面的に支持し、今後はアスリートのメンタル面でのケアを改善させていくという大きな方針が引き出されたわけです。

この件を巡っては、なぜ最初からうつであることを明かした上で、会見拒否を表明しなかったのか疑問。主張はするが対話はしない大坂。という論調も見受けられます。

いったん拳を振り上げた大会側からすれば、「うつの件は後出ししないで最初から言ってよ」ということかもしれません。しかし彼女の、まず行動を起こして相手の反応を引き出し、それに重ねて意外な真実を明かして反撃した一連の流れが、計算されたものかどうかはともかく、結果的にコミュニケーション効果を最大化したことは間違いないでしょう。

これは、コミュニケーションのあり方にとって大変重要なことを示唆していると思います。それは、大坂選手の会見拒否が、大会側への「答え」ではなく、「問い」であったという点でしょう。

大会側は、会見拒否を「不満に対する答え」つまりゴールととらえて、ルールに則り制裁措置を下したわけです。しかし、大坂選手の会見拒否は、大会側はもちろん、メディアや世の中に対して「このルールのままでいいのか?ここから変われるのか?という問い」つまりスタート地点を示したわけです。

会見義務という古いルールの是非を、拒否というカタチで大会側に問いかけたのだと思います。それは確かに表層的には「対話なき主張」にしか見えませんが。

全米オープンでの黒いマスクも「問い」だった。

大坂選手が全米オープンで優勝した際のインタビューを思い出します。試合を通して、彼女は一貫して黒人差別による被害者の名前が書かれた黒いマスクをしていました。そのことについて、インタビュアーが「マスクで何を伝えたかったのでしょうか?」と聞きました。

「え!そこ本人に聞く?それを聞いちゃ、おしまいでしょ!」と思いましたが、まあ、そのインタビュアーだってアホではないだろうし(ネットでは完全にアホ呼ばわりされていましたが)、マスクの意味を知らない視聴者に代わって、あえて聞いたのでしょう。

しかし彼女は「えー、このマスクに込めた意味はですね・・・」などとは答えませんでした。「あなたはどんなメッセージを受け取ったの?」とインタビュアーに聞き返したのです。その後、彼女は「人々に議論を求める」ことが目的だったとも述べています。つまり「何を伝えたかったのか、それは一人一人が考えてほしい(考えるべき)」というメッセージでした。

これは、コミュニケーションの役割についての本質を突いた言葉だと思いました。インタビュアーは大坂選手のマスクを「彼女自身の答え」と考え、その解説を求めたのですが、彼女がマスクに込めた想いは「他者に向けた問い」だったわけです。

大坂選手はよく「発信力がある」と評されます。本音の言葉に力があり、チャーミングである、SNSでの発信がうまいということもありますが、彼女の本領は「問いかける力がある」ということでしょう。

問うことで、問題は自分事化される。

今、世の中は、ネットの情報だったり、政治家だったり、ワイドショーのコメンテーターだったり、世論調査だったり、街頭インタビューの回答者だったり、「答えを示す人」で溢れています。

その既製品の意見を「自分の答えとして選ぶ」のは簡単です。ですので、大坂選手のように問いかけるコミュニケーションのあり方は、まだるっこしいように感じるかもしれません。

ですが、答えを示すだけのコミュニケーションより、答えは自分の中にあると気づかせ考えさせるコミュニケーションの方が、その問題を自分事として捉えさせる力があることは言うまでもないでしょう。

 

筆者については・・・

 

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炎上した報ステCMを検証

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「きっと企画書上は成立していたはず」

いったい何が言いたかったのか?

そろそろほとぼりが冷めたと思うので、最近炎上し中止になった「報道ステーションのCM」について語っていきましょう。公式からは削除されていますので、ご覧にならなかった方のために、流れを紹介していきます。

シチュエーションは、カメラ目線で一方的にしゃべる若い女性で、カメラは固定です。おそらくオンラインチャット中のPCに向かって友だちとおしゃべりしているのでしょう。内容は次のようなものです。メッセージを浮き上がらせるために、語り口のトーンを省いてエッセンスだけを抽出してみましょう。

①リモートワークに慣れたので、ひさびさに会社に行ったら変な感じだった

②先輩が産休明けに会社に赤ちゃんを連れてきたが可愛かった

③政治家が「ジェンダー平等」をスローガンに掲げている時点で時代遅れ

④すごくいい化粧品を買った

⑤消費税が高くなったが、国の借金は減っていない

⑥9時45分になったので、ニュースを見る

⑦タイトルIN「こいつ報ステみてるな」

以上の要素で構成されています。なお、これらの発言はシークエンスではなく、いろいろなことを話している中から、①から⑥の部分だけカットでつないでいる演出となっています。この中の③「ジェンダー平等は時代遅れ」というメッセージが炎上したのですね。

What to say?

おそらくですが、このCMのコンセプトは「報ステの番組内容」を紹介しつつ、「社会のことに高い意識を持つ女性は、報ステを観ている」ということを「視聴者のリアルな実感で表現」することで、「報ステへの関心を喚起しよう」というようなことだと思います。

それぞれの発言は、報ステの番組の構成内容とリンクしています。つまり

リモートワークに慣れて → コロナ禍での社会の変化

産休明けの先輩の赤ちゃん → 育児支援できる社会

ジェンダー平等を掲げる政治家は時代遅れ → ジェンダー平等をスローガンに終わらせない

消費増税でも国の借金は減っていない → 日本の経済問題

すごくいい化粧品を買った → マーケット情報・女性の意識に寄り添う姿勢

9時45分なのでニュースを見る → 報ステの開始時刻の告知

という番組コンセプトを訴求した、ロジカルに説得力のある企画なのだと思います。

そして、締めのコピー「こいつ報ステみてるな」

つまり、報ステを見ると、この女性のように世の中に関心を持つ自分になる。という読後感をもたらしたかったのでしょう。

その目的は達成できているのでしょうか?順番に見ていきましょう。

①リモートワークに慣れたので、ひさびさに会社に行ったら変な感じ → 報ステを観てなくとも思う

②先輩が産休明けに会社に赤ちゃんを連れてきたが可愛かった → 同上

③政治家が「ジェンダー平等」をスローガンに掲げている時点で時代遅れ → 報ステの影響?

④すごくいい化粧品を買った → 報ステとは関係ない

⑤消費税が高くなったが、国の借金は減っていない → 報ステの影響?

つまり、実は5つの話題のうち2つしか報ステの情報の影響下にないということが分かります。そのうちの1つが炎上したとすれば、これはもう全体として「報ステの情報には問題がある」ととられてしまっても仕方ないでしょう。

私は⑤の消費増税と国の借金のくだりも意味が分かりませんでした。「国の借金」とは何を指すのか。「国債」のことであれば「国の借金」と言うのは誤りですし、さらに税金と国の借金を並べて語る認識を疑います。

それにしても、なぜよりによって「ジェンダー平等」などというリスキーな話題を選んだのでしょう。しかも「ジェンダー平等」を課題として語らせるのではなく、「政治家がジェンダー平等を掲げる時点で時代遅れ」というコピーを書いてしまったのでしょう?

そもそも、このコピーの意味するところが分かりません。ジェンダー平等を掲げる政治家は時代遅れである?これには現にジェンダー平等を政策に掲げている政治家の皆さんは抗議すべきでしょう。

この女性は、報ステを観て「ジェンダー平等を掲げる政治家は時代遅れ」という意識を持ったということです。うがってみれば「ジェンダー平等を掲げる政治家」は支持するなと視聴者に呼びかけているようなものでしょう。

How to say?

では、クリエイティブとしてはどうなのでしょうか?この女性は終始カメラ目線のストレートトークです。オンラインで友だちとおしゃべりしているのかと思いますが、客観カットがなく、その設定が明かされないので、WEBで観ている視聴者にとっては、ダイレクトに自分に話しかけられているように感じられるでしょう。

いきなり画面全面に知らない女性が出てきて、自分に対して一方的に話しまくる、という状況は、はたして気持ちいいものなのでしょうか。メジャーなタレントだったならうれしいでしょうが。

情報番組で仕入れた知識を一方的に話し続ける・・・この女性を見て「私もそうなりたい」とは感じにくいのではないですか。ですので、炎上以前に、このCMは成功したとは言い難いでしょう。

生活者のリアルを描くCMの危うさ

「リアル」を描いて視聴者に共感をもたらすことは、かなりの腕とセンスが求められます。ありそうなシーンを描けばリアリティが生まれる、というわけでは決してありません。演出せずにリアリティを出そうとするなら、カメラアングルや被写体そのものの存在感と言葉にリアリティがなければなりません。その意味で、このCMにリアリティは皆無です。一方、徹底的に演出して「リアリティを作り込む」というやり方もあります。その場合はキャスティングも含めて作る方の腕が問われます。力不足だと陳腐なものになるでしょう。

また、決めの「こいつ報ステみてるな」というメッセージも気になるところです。これは素直に受け取るなら、会話している相手の感想でしょう。しかし、この一言はCMで伝えたい広告主からのメッセージとして聞こえてくるはずです。

「こいつ」呼ばわりは、すでに報ステのヘビーユーザー(局から見ればお客様)であろう女性と、これから観てもらいたいターゲットに対して失礼なのではないでしょうか。

 

筆者については・・・

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広告でタレントを起用するということ。

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王道で行くか、新道を拓くか、逆走するか

使い方はクリエイターの個性、企業の文化。

東京オリンピックの開閉会式の演出アイデアとして、渡辺直美さんの起用の仕方が話題になっているようです。このアイデアを提案した演出責任者であるクリエイティブディレクターの過去の会議での発言が流出したとされています。

そのアイデアの是非は置いておいて、ここでは、タレントと広告コミュニケーションという視点でお話ししていきましょう。なぜタレントと広告かというと、このクリエイティブディレクターは、常に新しい広告表現を生み出してきた、広告クリエイティブのレジェンド的な存在だからです。

つまり、広告クリエイターは、表現開発に当たってタレントさんをどう見ているかということが、今回の件に関係あるかもしれないと思うからです。

クリエイターにしてもクライアントにしても、タレントと向き合う姿勢はさまざまです。その向き合い方がクリエイターの個性であり、そのクリエイターを使う企業や組織のポリシーといえます。つまり、タレントの扱い方に、その企業や組織の文化が現れているともいえるでしょう。

 広告にタレントを起用する目的。

私もこれまで、何十人ものタレントを起用した広告を作ってきました。その多くは名を成した方たちですが、中にはタレントにとって広告初出演の作品も多く手がけました。たとえば沖縄出身の小学生4人組だったり、今やMCとしても実力を発揮されているお笑いコンビだったり。

この場合は、企業にしてみれば、そのタレント初の広告という話題性によるプロモーションパワーに対価を払うわけです。

そもそもなんで広告にタレントを起用するのか、その意味について考えてみましょう。広告の目的のほとんどは商品を売ることです。また企業のイメージを向上させること。あまり名が知られていない企業のリクルート対策や、社員のモチベーション向上などにも貢献します。タレントCMを流しているとメジャー感もあります。

また、商品の物性で差別化が図りにくい場合に、タレントの存在感と商品を強制連結させることで差別化を図ります。「男は黙ってサッポロビール」という三船敏郎さんの広告がありましたが、では「男は黙ってキリンビール」では成立しないのか、といえば成立してしまうとも言えます。タレントの存在感そのものを利用する王道的な表現ですね。

大物タレントの起用はこのパターンが多くなります。せっかく大物を使っているのに、存在感やイメージそのものを丸ごと利用しないともったいないと考えるからです。大物タレントほど、そのような表現しかやってくれないという事情もありますが。

あの人が飲んでいるビールなら、あの人が使っているコスメなら、あの人が乗っている車なら・・・というタレントイメージに消費者自身の理想のイメージを重ねて、その商品が売れていくわけです。

新発売の際の話題性や、トライアルしてもらいやすさなどの点でもタレント広告は効果的です。タレント本人にも契約期間中は、なるべくその商品を使ってもらいます。

 広告でも本来のイメージを守りたがる。

大物でなくとも、多くの場合、タレントは本来のイメージを広告でも守ろうとします。それは起用する側にとっても期待するところですので、むしろかまわないのですが、たまに困ることが起きます。

たとえば食品で広告契約した女優さんから、食べるシーンはできないと言われたことがあります。そんなアホなと思いますが、タレントは企業側のアンバサダーであり、商品を推奨するが、消費者役として登場しているわけではないとする考え方です。まあ一理あります。映画やドラマの中で自然にものを食べるのと、15秒で食べるシーンを切り取るのは違うという考え方でしょう。そこは本人や事務所のポリシーです。

 事務所が変わるとタレントも変化。

 アイドル的に売り出していた女優さんを、ある飲料の広告に起用していたことがあります。最初の作品ではカメラマンの「はいスマイル~!」というような声にニコニコと応えていました。次の年、彼女は事務所を移籍しました。

その事務所は彼女を本格的な女優として育てていこうという考え方でした。それは本人の意向だったのでしょう。そして迎えた新作CMの撮影時。以前のような満面の笑みは見せてくれません。「もっとスマイル~!」というカメラマンの声に「なぜこの笑顔ではいけないんですか?」と応じてきました。

「はい、いいね!もう一枚」には「今のでいいなら、それでいいのではないでしょうか」とも。カメラマンはブチ切れるし、クライアントも困惑していました。アイドルが女優へと舵を切ったわけです。

CMの企画調整時から彼女のイメージについて事務所がきわめて明確な方針を持っていて、その時点ですでに商品のイメージとはズレてきているなとは気づいていたのですが、契約期間が続いているのでそのまま制作したわけです。タレントのあり方を大きく変更するなら、その方針をもとに契約をどうするかから検討すべきでした。

起用時には明るく元気なタレントイメージを、商品イメージに重ねていたわけですが、タレントイメージが変わったからといって、商品イメージの方を変えることはできません。その女優さんは多くの映画賞を受賞するほど大成されました。

 広告でタレントイメージを壊すことも。

一方、意外性のある使い方で、広告表現を目立たせて話題にするという起用の仕方もあります。本業とのギャップをコミュニケーションパワーにするわけです。やくざ役が多い俳優にマイホームパパを演じてもらったり、お笑いタレントにシリアスな役をやってもらったり、まさかと思う人に華麗に踊ってもらったり。

これは本人が納得して楽しんでやってくれることが前提です。またそれによって芸域が広がって、本業にも良い効果を生むと期待してもらえる説得が必要です。しかし築いてきたイメージが壊れるリスクもありますので、事務所は慎重に判断します。

 企画過程で、どんな検討がされるか。

タレント起用の考え方がさまざまある中で、実際の企画会議では、どのようにタレント起用のアイデアが検討されるのか。それを主導するのは、表現全体の方向を決めていくクリエイティブディレクターでしょう。

その頭の中には、どうすれば話題になるか、新しい表現にできるか、どうすれば世の中が動くか、どうすればクライアントが採用するか、どうすれば費用対効果を最大化できるか、つまり契約金に見合う以上の効果を出せるか、どうすれば事務所を説得できるか、などなどの想いが巡っているはずです。

その中で、あえてタレントのイメージを壊すアイデアも浮かんでくることもあるでしょう。しかしそのアイデアが、さまざまな「どうすれば」のハードルを越えて実現に向けて動くことは稀でしょう。というか、ほとんどのクリエイターは諦めてしまうでしょう。

しかし、それを突破する力のあるクリエイターが、それを承認するクライアントと出会い、タレントを説得できた時、斬新な表現が生まれます。そしてハードルが高いがゆえに、他が追随することは困難です。

そんなクリエイターの頂点が、今回、話題になった方です。モラル的な是非はありますが(というか、そこは大事なことですが)、いろいろなアイデアを発想したのはむしろ当たり前でしょう。なにせ、家族を描くCMでお父さんを犬にしてしまった方なのですから。

 

筆者については・・・

 

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ストレスを、ワクワクに。

 

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「生きていることが幸せ!」

たとえば仕事で大きな目標を立てて頑張り、見事に実現した。でも、頑張っている最中は分からなかったけれど、いざ実現してみると、それほど大したことをやり遂げたという実感が湧いてこなかったり、まわりの評価もそれほどじゃなかったりということはありませんか?必死に努力した目標が、実現してみると、幸せをもたらすものでなかったと気づくこと。

一生懸命に頑張った結果が、実現した後でたいしたものではなかったと気づく。未来に起きる事に対して自分がどう感じるのかの予測と、結果として実際に抱いた感覚のズレを「インパクトバイアス」と呼びます。

実際はそこまで幸福感をもたらさないものを手に入れるために、自分は必死になっていたのか。と気づいた時に、自尊心が傷つき、ストレスとなって落ち込んでしまう。せっかく目標を達成したのに、それによって不幸を感じてしまうという、なんという矛盾でしょうか。

そこから立ち上がろうと、人はさらに高い目標を目指すこともあるでしょう。しかし、その目標がモノだった場合は「もっともっと」となって、どこまでいったら満たされるのか保障はありません。また、経済的に満たされても、健康や人間関係などの悩みが出てくれば、今度は経済的な成功が幸福感をもたらすものには感じられなくなってしまうでしょう。

では、インパクトバイアスにさいなまれない幸福感はあるのか?それは、生きていること自体が幸福だと感じられることではないでしょうか。悩みがないという状態ではありません。むしろ、怒りや悲しみに直面しても、それを受け止めつつ、なおそこから立ち上がっていこうとするレジリエンスの力、乗り越える勇気のようなものといえるでしょう。

毎日の悩みを乗り越えていくことは、とても人間らしい状態といえます。さらに大きな悩みを乗り越えた経験を持つことで、インパクトバイアスに一喜一憂しない人生となるはずです。

心理学では、目標に向かう時の人の傾向性には「戦略的楽観主義」と「防衛的悲観主義」があると説きます。戦略的楽観主義の人は、うまくいった場合を思い描いて努力する。防衛的悲観主義の人は、失敗した場合を想定し、そうならないように努力する。

どちらも結果は出るとしても、その達成によって得られる幸福感は違うような気がします。また、防衛的悲観主義の人に、無理やり前向きになってもらうと、逆に結果につながらないこともわかっています。

話は変わりますが、「再評価」と呼ばれる方法があると聞きました。ストレスや不安を感じると心拍数が増えますが、これは興奮した時の状態と似ています。そこで、ストレスを感じている時のドキドキする感じを、ワクワクしていると自分に錯覚させるわけです。ストレスを感じている時に、あえて声に出して「今、ワクワクしてるー!」などと言ってみるとよいとのことです。何を言うのかは、人それぞれでしょう。

困難にあうたびに、それを挑戦のワクワク感に置き換えていくことを繰り返していくと、いつか自然にストレスを挑戦へのエネルギーに転換していくことができる自分になっていくのかもしれませんね。

 

筆者については・・・

 

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コンサマトリーを超えて。

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渡る世間は鬼ばかりでも」

コロナ禍の中で、会わなくてすむ人とは、ますます会わなくなっていく、そういうサイクルが加速していくのでしょうか。無意識に人間関係の仕分けというか断捨離が始まっていくのかもしれません。

「不要不急」がキーワードになって、不要不急の人間関係までが整理されてしまうのは、いかがなものでしょうか。物理的に人と会う機会が減るので、それもある程度はしょうがないでしょう。でも「今は不要」という理由で、「今後も不要」と、このさい人間関係を整理してしまうのは賛成できません。

この先の人生には必要になる人間関係かもしれませんし、向こうはこちらを必要としているかもしれません。そういう不要不急と思い込んでいる人間関係こそ、実はその人の財産なのかもしれません。逆にこういう時だからこそ、あえて連絡してみたらいかがでしょうか?

さらにいえば、人生にとって本当は重要なはずの、厳しく言ってくれる人や苦手な人を、不要不急という理由をつけて削除してしまうことを、えてして人間はやりがちです。自分に都合よく断捨離した結果として残った人間関係は、今の時点で快適ではあるかもしれませんが、長い目で見ると自分を成長させてくれる試練にはならないかもしれません。

ストレスのない快適な人間関係の中だけで生きていく、今ここで感じる幸せを大切にする生き方を、社会学では「コンサマトリー」と言うようです。何かに向かって頑張らない、自己充足的な生き方。その生き方が一概に悪いとは言えません。

仲間を大事にするのは良いことです。しかし、ずっと今の仲間うちで生きていくというのは、裏を返せば、それ以外の人には関心を持たないで生きていくということとも言えます。人間関係の希薄化は、ここから進んでいくような気がします。

コンサマトリーの反対にあるのが「世間」でしょう。コンサマトリーが「固定した仲間と、今を生きる、快適な時空間」とすると、世間は「さまざまな人々と交わりながら、これからを生きる、不快なこともある時空間」と言えるでしょう。

そんな「世間」という感覚が、だんだん無くなっていくのではないでしょうか。「渡る世間は鬼ばかり」とも言いますが、「鬼ばかりの世間なんて、最初から渡らない」という人が増えていくということです。

「世間体を気にする」とかも言いますし、「世間」て、こちらが受け身になると、あまり居心地のいい世界ではないでしょう。「世間知らず」な自分にとっては未知数なことばかりですから。せっかく今は心地よい仲間なのに、そこから踏み出して知らない人とも生きていくことを考えると、世界が変わってしまうんじゃないかという不安でいっぱいになります。

でも、そうしてコンサマトリーに閉じこもっているだけじゃ、せっかくの人生つまらなくない?そう問いかければ、心の扉が少し開いて光が差し、出ていこうかと気づく人もきっと現れるはずです。むしろコロナ禍の中だからこそ、そんな問題意識が生まれることもあるでしょう。

では、いったい誰が問いかけるのか。「もっとワクワクすることがあるとしたら、それは何だろう?」と問い、その答えに誘導していく人だと思います。問題提起し、気づきを与え、相手が自分で答えを出すように導いていく人というイメージでしょうか。

ですから、相手といっしょに悩むという姿はとるのですが、自身はあらかじめ答えを持っていなければいけません。グループインタビューやHRの研修の場で仕切るファシリテーターのようなイメージですね。

説得とかおしつけるのではなくて、自分で導き出した答えだと思わなければ、身体は動かないものです。そして、コロナの時代に、若者を惹きつけられる「問い」は、個人的なことよりも、もっと「世間」に目を向けた社会的な関わりなのかもしれません。

 

筆者については・・・

 

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企画がどうにも止まらない、プランナーズハイ。

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「広告表現が商品を生むこともある」

広告のプランニングの過程では、考えていくことが面白くなって、その先へ、その先へと、どんどんハマっていくということが起きます。自分の頭の中でハマっていくということもありますが、チームとしてハマって、どんどん加速していくこともあります。

 

だいぶ前のことですが、あるビールの開発プロジェクトに参加しました。開発に当たっての基本的な考え方はクライアントから提示されましたが、それは成分や味などの物性ではなくて、情緒的なものでした。

今までのビールを飲みたい気分とは違う「新しいビール気分」を見つけて、そこから発想して、味や香り、ネーミングとパッケージ、そして広告表現を同時に開発していくというプロジェクトでした。

 

今までビールが訴求していなかった心理的ベネフィット、新しい情緒価値を消費者に提案できないか、がテーマです。「どんな味だから」ではなく、「何かあったから」でも「何かを食べながら」でもなく、「ああ、こんな時ビールを飲むのも、しあわせなんだね」という気づきの提案です。まずそれがあって、その気分にふさわしい味や香りを作っていこうという流れです。

 

商品の内容が決まっていて、最後の広告を作るところから参加するという通常の関わり方ではないので、新しい血を入れて新鮮な発想で進めました。

パッケージデザインは、ビールに精通したデザイナーに加えて、パッケージデザインとは無縁のアート系のクリエイターにも参加してもらいました。型にはまらない斬新な案がたくさん上がってきました。しかも調査ではそれらが上位に並びました。もちろんコンビニのリーチインに並んだ時の目立ち方など、デザイン上で外せないノウハウはあるので調整が必要ですが。

 

CMも同時進行で考えていきました。方向を絞っていくのではなく、あえて広げる方向で提案していきました。

「この気分でビール、というのは新しいね」「ここまでいくと新ジャンル感はあるけど、もうビールではないのでは?」「これならビールを飲まない人にも振り向いてもらえる」「このCMは、とにかく世の中を幸せにできそう」などなど、どんどん盛り上がっていきました。

まさにハマっていったわけです。クライアントもスタッフも一体となってどんどんハマり、300案以上作ったでしょうか。プランナー自身がコンテを描いたので、コンテライターのコストはかからないのをいいことに。ランナーズハイならぬ「プランナーズハイ」です。今思い返しても、楽しい経験でした。

 

「オリエンの3日後にプレ」という案件も、それはそれで楽しいですが、企画すること自体が楽しくてしょうがない「もうどうにも止まらない」という意味でハマるのは、クリエイターにとって幸せな状態と言えるでしょう。

 

筆者については・・・

 

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